月々さんを救いたい。番外編
初めまして、おーしゃんです。
この記事は、前回の『月々さんを救いたい。』の番外編として、記事の中では触れなかったことについて考えたいと思います。
(まだ前回の記事を読んでいないという方はこちらからご覧ください。)
挨拶しない人を嫌う自由
月々さんは「挨拶しない自由」があるのではないかと訴えました。
そして、これに対して多くの人が出した意見が「挨拶しない自由があるなら、挨拶しない人を嫌う自由もある」というものです。
一見鋭いパンチラインのように思えますが、果たしてこの考え方は適切なのでしょうか?
「挨拶しない自由」の意図
まず「挨拶しない自由」という言葉の意図についてですが、多くの人が「自分が挨拶しないことを強要したい」という意図を汲み取っているようです。しかし、どちらかと言えば「他人に挨拶させることを強要しないでほしい」という意図があるのではないかと思います。
どういうことかと言うと、挨拶は内発的に進んでするべきだが、外発的に進んでさせるべきではないということです。
月々さん本人も、礼儀を重んじて挨拶をされる方です。月々さんの問題提起の本質とは「挨拶は他人から誘発するものではない」ということなのではないでしょうか。
つまり、今回の議論において注目すべきは「挨拶をさせる人」の存在であり「挨拶をしない人」の存在ではないということです。
そもそもの話にはなりますが、まずはこの点を理解しておきましょう。
挨拶しない条件
何度も言いますが、挨拶とは「内面的な気持ちの表現」です。
つまり「『内面的な気持ちを表現したい』と思ったとき、初めて挨拶が行われる」ということです。
そして、この命題の対偶を考えると「挨拶が行われなかった場合『内面的な気持ちを表現したい』と思っていない」ということになります。
例えば「ありがとう」と言わなかった人がいた場合、その人はそのとき「感謝」の気持ちが内発しなかった、もしくは内発したものの表現しようと思わなかった、ということになります。
これを踏まえて、挨拶をするか否かで嫌うよりも「感謝」の気持ちが内発しなかった理由、内発したものの表現しようと思わなかった理由で嫌う方が適切だと考えます。
「ありがとう」を言わなかった人が「落とした財布を拾ってもらった人」であれば嫌われても仕方ないですし「女性の胸が偶然当たった人」であれば嫌われることはないでしょう。
つまり、嫌うべきときに嫌うべき人を嫌えば良いということです。
挨拶を強要したくなった場合
挨拶しない人を嫌う自由があるとはいえ、挨拶を強要することが必ずしも最適解とは限りません、そこで、もし挨拶しない人に挨拶を強要したくなった場合の適切な対処法についても考えたいと思います。
まず、直接「挨拶しろ」と言うのは不適切でしょう。
前述の通り、挨拶をしない理由は気持ちが内発しなかったか、内発したものの表現しようと思わなかったかのどちらかです。
まず気持ちが内発しなかった場合ですが、気持ちが内発しなかった理由を尋ねるべきでしょう。
どの状況であれば該当の気持ちが内発するかなどを聞き、その状況においても「この気持ちが内発するべきだ」と思うのであれば、その旨を伝えてみましょう。
そして内発したものの表現しようと思わなかった場合ですが、こちらは対人関係が苦手な人に多く見られる原因だと思います。実際、僕も挨拶しようとして声を出せなかったことがあります。
こういった場合は、周りと同じパフォーマンスを求めるのではなく、その人に合わせた簡単な会釈などを勧めてみるのが良いのではないでしょうか。
まとめ
結論、挨拶しない人を嫌う自由はあります。しかし「挨拶をしない」ことが直接の理由になることは不適切です。
そして「挨拶しない自由があるなら、挨拶しない人を嫌う自由もある」という意見。まるで「挨拶しない自由」が認められるとき初めて「挨拶しない人を嫌う自由」も認められるかのような言い回しで上手いことを言っていそうですが、そもそも「挨拶しない自由」があることと「挨拶しない人を嫌う自由」があることに因果関係はないように思えます。
感情が先行して意見の切れ味を強くしたいがあまりに「それっぽい」言葉を使いたくなることもあるかもしれませんが、本当にその言葉に意味があるのか吟味してみることも大事なのではないでしょうか。僕も気を付けていきたいと思います。
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