分離と統合を分ける幕
分離の良さって何だろう、と考えた時に、やはりそれは温度差のようなもの、「違いを感じられる」ことではないのかしらと、とりとめなく思う。
たとえば誰かと手を繋いでも、手と手が触れあい解け合って、二人の手が1本の手になるということはない。(ない、と信じきっているから、ないだけかも知れないけれど)
お風呂の温度が体温と一緒くらいのぬるま湯だったら、肌なのかお湯なのか分からない不思議な感覚になる、ああいうのが統合意識なのではなかろうか。
去年から読み進めてようやく二巻まで一巡した「ラー文書」によく登場する《自己の他者》というのは、72億ないし80億の人間が1人の「私」だとすると、「私」もまた72億ないし80億の人間の意識が集まって形成されている、そんな感覚なのかも知れない。
72億ないし80億の《自己》が互いに、72億ないし80億の《自己の他者》たちと意識を分けあっている。
街を歩いていると、友人によく似たコンビニの店員さんだとか、バス停で見かける人にそっくりな通りすがりの人などに頻繁に出逢う。
先日も親の病院通いに付き添って、そこで見かけた看護士さんが職場の人に瓜二つだったり、年輩の患者さんが知人の20年後を思わせたりして、何度もハッとさせられた。
ピカピカの革靴を履いて、ズボンの折り目にきちっとアイロンの当ててあるスーツを着た男性と、よく似た別の誰かがその数十メートル後ろを歩いている。一生すれ違うこともないだろう二人を私が見ている。
これは何だろう、何なんだろうと思いながらも、大事なことは忙しない日常に、すぐに掻き消されてしまう。
幕が上がるまでステージと客席は分離しているが、一度幕が上がればステージと客席は一体化し、1つの時空を共有する。
しかし、その共有された時空間も、ライブハウスや劇場など、閉じ込められた限定的な場所に過ぎない。
ハコの内側と外側を分ける仕切りが、ステージと客席を隔てる幕のようなものが、《自己》と《自己の他者》の間にも存在しているのだろうか。