障がい受容とは
私は市町村保健師として母子保健に携わるなかで発達に遅れや偏りのある多くの乳幼児にかかわってきました。また、私自身の子どもが乳児期から発達がゆっくりな経過があります。
前回のnoteで発達の遅れや偏りに不安を感じた時について書きました。
今回は、自分の経験からみた障がい受容や「発達の遅れや偏りの受け入れ」について書こうと思います。
「発達の遅れや偏り」というのは非常に広い概念ですが、実際、母子保健の現場ではそういう広い対象が支援対象になります。
就学時点で支援の必要がなくなる子どもさんも多くありません。
就学まで引きずる場合、一般的には年齢があがるにつれて同齢の健常の子どもさんとの差が明らかとなり、遅れがある場合は遅れが目立ったり、偏りがある場合は特性が顕著になってきます。
成長とともに発達の遅れや特性がはっきりしてくるケースがある一方で、胎内や生後すぐに染色体異常やなんらかの病気がわかるケースもあります。この場合は、早い時期に我が子が障がいを有することになると察することになるでしょう。
発達の遅れや偏りの受け入れには、その保護者のそれまでの価値観やものの考え方が大きく影響します。
一方で保護者自身が(ここでは子どものお母さんと仮定します)、「ありのままの子どもを受け入れる。別に発達ゆっくりならゆっくりでもいい」と思っていても、まわりの環境がそれをよしとしない場合は多く、そのためにお母さんが不安を感じる、ということは多くあります。
まわりがよしとしない場合について、例えばの例を挙げます。
例①
お母さんは子どもの発達の遅れに気付いたけど、ゆっくりならゆっくりで、それが我が子と思っていた。でも、在園する保育園から送迎の度に気がかりな様子を聞くようになり、「こんなに毎日園から言われるのは、ここの園ではみれないということ?保育園で預かってもらえなくなったら仕事はどうしたらいいの?」という不安を感じる。
例②
お母さんは子どもの落ち着きのなさに気付いていたけど、様子をみようと思っていた。でも夫であるお父さんと義母が心配し、保健センターに相談していた。お父さんと発達相談に行って、病院受診を勧められたようだ。病院に行ったら診断がつくのか?将来的に受験などに影響しないか?と不安に感じる。
不安を感じることは悪いことではありません。むしろ、本能だと思います。
私自身の子育てを振り返ったとき、乳児期に子どもの発達の遅れに気付き、とても不安になりました。今、振り返るとそれは、私にとってのふつうが脅かさせる状況への不安でした。
この先の生活はどうなるの?
思っていた育児ではなくなる?
将来的に子どもはどうなる?
障がいがあるのか?
保育園に入れる?
私は仕事復帰できる?
夫や家族はどう思う?
わからないことへの不安。
変化を求められることへの不安。
私の子どもの場合は3歳頃に、医師から将来的にも、なんらかの支援が必要だろうと言われました。乳児期から発達がゆっくりで、ずっと医師と経過をみていました。もちろん、成長を期待していました。いつか同齢児に追いつくのではないかという期待。でも、だんだんと同齢児との差が開いているのを感じていたころでした。なので、医師からそのことばを聞いた時、「将来的になんらかの支援が必要=障がい」と受け止めました、
私は在職中によく一歳半や三歳半の健診で、保護者から「様子を見たい」という言葉をききました。健診で、発達相談を一度受けてもらったほうがいいかなと思った方でも、保護者が様子を見たいと言った場合、無理強いせず、いつまで様子を見るか、その期限までどのようなことに気をつけて過ごすといいかなど助言していました。
支援者サイドからみたとき、様子を見たいと話す保護者は「拒否的」あるいは「抵抗あり」という風に捉えられます。
でも、様子を見るのも、発達相談を受けるのも、療育に行くのも行かないのも、病院受診するのもしないのも、保護者の選択であっていいと私は思います。
保護者自身が気付いていない、もしくは受け止めできていない段階で、他者から踏み込んだ指摘をするのは避けるべきことです。
個人個人に事情があります。
時間が解決する部分もあります。
私自身もそうで、段階を経て受け止めてきています。
発達相談に行くこと。
療育に通うこと。
療育手帳を申請すること。
今も、子どもに知的障がいがあるという話はそんなに人に話していません。子どもに知的障がいがあるということは認識していますが、自分の中でそれを口に出して人に言うことはまた別のことです。でも、今はそれでいいと思っています。
子育てする保護者が、前向きに子育てできるといいなと思います。
保護者がこころもからだも元気でいることが本当に大切なことです。