地方民と都民は同じ人間ではない
地方民と都民は、同じヒトという生き物だが、同じ社会的動物であるところの「人間」ではない。
そんなことを、過去の就職活動を振り返って思い出した。
生まれた時から、地方民らしい暮らしを強いられる
東京は物価が高い。
東京は飯がまずい。
東京の人は冷たい。
東京なんて住むところではない。
地方に住んでいると、自然に東京へのネガティブイメージを擦り込まれる。
車で行ける、最寄りの政令指定都市で働くことが最上級に誇らしいことであり、次に地元の公務員になることが正解ルート。
そうして、地方民は地方を出ることなく地元で一生を終える。
これは、全て地方民に先祖の代から継ぎ足されてきたバイアス。私も22歳までこのスタンス。流れるように地元で働く。
あるようで、実質的に存在しない選択肢
本当は就職活動の時に、東京にいくという選択肢がちょっとだけあったような気がする。ただ、学校にきている求人は、地元に残る選択肢が9割、残りの頭おかしいルートが1割、みたいな感じだった。(今思うと、一般応募で就職活動をすればよかったのだが、学校推薦で行くのがまあ当たり前という風潮もあった。インターン?工場で働くみたいなのはあったけど)
ただ覚悟がなかっただけなのか?半分はそう。自分に自信がなかった。でも、半分は違うと思う。
あの時あの場所で、担当の先生に「東京で働きたい」と言っていい空気感はなかった。勇気とかじゃなくて、おかしなことを言ってる感覚。
地元にもたくさん素晴らしい企業があるよ。
地元なら実家から通えるよ。
地元の企業はつながりがあるから安心だよ。
この企業なら最終的に地元帰ってくる選択肢があるよ
自然で悪意のない集団の狂気に、自然と「じゃあ、最終的に地元に帰ってこれるここ受けます」と行った感じがあった。
100万円もらえるクイズ番組で、10万円でリタイアするなんて言えない。甲子園球児に目標を聞いて、優勝以外のことは言えない。地元に就職するのが当たり前の風潮で、東京行きたいですなんて言えない。
そんなわけで「東京いこっかな、地元残ろっかな、どうしよっかな」と考えられるようなフラットな選択肢はとてもなかった。
特別扱いしてもらって、やっと選択肢が見える
二年くらい地元で働いた後、色々あって、会社をやめる決意をしてしまった(理由はマジでこのnoteとは関係ない。上司との関係性の話)
地方で大企業の福利厚生を受けて暮らす新卒は、手取り14万しかなくても裕福だった。1LDKに住み、車も持ち、学生時代に比べて、フットワークも軽かった。
そんな状態で、ためしに1件だけ東京の面接受けよう。遊んで帰ってこよう。久々に同期にも会いたい。そんな感じで、東京の企業の面接を入れてみた。だめでも同期と会うし、飲んで忘れればいいやと思いながら。
そんなノリで求人を見ていると、実は地方民に選択肢が開かれていることに気づく。
「上京者歓迎」
「遠方の人、面接交通費支給」
「支社での面接OK」
「地方出身者の人たくさんいます」
「未経験歓迎です」
あれ?いけるんでは?
思ったよりも、入り口はフラットだった。なんなら、下駄を履かせてまで機会をくれていた。あの時の「地方の恩恵を受けながら、特別扱いを受けて都民同様の機会を得ている」という私は、都民からしたらズルく見えただろうか。
私からしたら、やっと同じだけの選択肢が見えるようになったにすぎなかったのだが。
選択肢が「見える」ことで、初めて「選ぶ」ことができる
東京なんて住むところではない。そうやって擦り込まれてきた私はそれをきっかけに色々な東京像を勝手に作り上げていた。
よく考えたら、一人一人が地方民を排除する思想を持っているわけなんてない。でも「東京なんて住むところじゃない」というバイアスはあった。そのバイアスは誰が作ったとかじゃなくて、実感としてあった。
実際、むしろ東京の会社がそうやって機会を開いてくれていることが、すごく心強かった。そういう呼びかけを見て初めて「東京で働くか、地元残るか、どうしよっかな」という選択をできるようになったのだから。
そうまでして「選択肢が見える」くらいの下駄を履かせないと、地元に残ることを自然に選んでしまう。そんな社会のバイアスを受けているのが地方民だと、都民同様に暮らす地方民になってみて改めて実感する。
地方民と都民は、同じ人間ではない
生まれた時から、地方民らしい暮らしを強いられる
あるようで、実質的に存在しない選択肢
特別扱いしてもらって、やっと選択肢が見える
選択肢が「見える」ことで、初めて「選ぶ」ことができる
こんな状況で「でも、それは実力だよ。平等だよ。自分の努力が足りてないよ」なんて、もう、あらゆるチャンスに恵まれる側になってしまった立場からそんなダサいことはとても言えない。