見出し画像

人に「成長しろ」と思ってしまう感情と向き合う。

ナユです。

自身もコーチでありながら、クライアントとしてコーチングを受けてもいます。けっこうハードなテーマを選定しがちですが、セッション終了後にはずっと向き合うことを避けてきた感情と上手く付き合えていける気持ちになれて非常に満足しています。

先日、けっこう自分的には大きなトピックに向き合いました(すげー疲れた)おかげさまで自分なりの結論がでました。もしかしたら世の中にもこの問題で悩んでいる人が居るのではと思い、いちサンプルケースをインターネットに放流し、今後の誰かの役に立てばと思います。

成長してほしい、と思ってしまう問題と向き合う

「今日、久々にテーマが決まっていて。人に対して成長しろよと思ってしまう気持ちと折り合いをつけたいんです」

理由はシンプル。本心では「それぞれが、それぞれの生き方がある」ということを理解しているから。死ぬほど努力して耐えて耐えて強くなりたい人もいれば、ほどほどに平行線でいたい人もいることも知っている。それらの全てが尊重されるべきこともしっている。

ただ一方で、超ソフトに書くと「それはわかるけど、やっぱり頑張ることをおすすめしたい」みたいな気持ちが抑えきれずにいた。ストレートにソレを言ってしまいそうになる。私はこんなに、あなたのために色々しているのに……っていう。いわゆる生存バイアスも多分にあった。自身がたたき上げでそういう道を通ってきたと言うこともありその思考回路への誘導が著しい。

そんな思いでこの先やっていけるとは思えなかった。だから、この話をすることにした。

綺麗事の裏の「価値ある自分」でいたいという欲

なんでこんな思いが湧いてくるのかという問いに、まず「可能性を引き出したいから」という言葉がでてきた。

その言葉は純粋の願いのように見えたが、一方で心のざわつきもおこった。多分そういう綺麗な感情だけじゃない。もっと違ったのだろう。その違和感が心をざわつかせたのだろう。カラスを見て白い鳥だと言ってしまった時の感覚。

もう少し考える。言葉に出すのを恐れずに言う。きっと相手は認めてくれる。その一心で吐き出した言葉は以下のようなものだった。

「自分が辿ってきたルートと同じルートを歩ませて、成功させ、自分が正しかったと思いたい」

「その人にとって価値ある自分でいたい。自分が価値ある人だと思いたい」

紛れもなく自分の思い描く「なりたくない人間像」だった。思い描いたその自分は、放漫で生存バイアスばかりで物事を語る自分。そういう言葉を自分を一致させたくなくて綺麗事を吐いてしまったのだろうと思うとなかなか可愛らしい部分もあるが合計で気持ち悪さが勝っていた。

意外と言葉にするとすっきりしてしまった。それを認めてくれる人がいたことがでかい。対話相手の存在は尊い。

「そうなんだ」「そうっすね」自分自身、思ったよりあっさりと認めることができたことに正直驚いた。

割り切りたくないなら、それなりの行動責任を、という思いが芽生えた

この先は「自分を価値ある存在だと思いたい」という欲となんとか和解するルートかな、と思ったけど、その時点ですでに自分の中で「そのルートは無理な気がする」という結論が出ていた。

「その人にとっては価値がなかったかもしれないけど、いろんな人が必要としてくれているよ!」じゃあ結局自分の気持ちを押さえつけることにしかならないことに気づいた。

せっかくその人と出会って、せっかく機会を作れる立場にあっても「まあでも相性ってあるよね」でポシャってしまうのは嫌だと思っていた。割り切るルートがほぼ存在しなかった。

「嫌だ」とはっきり言ってしまうからには、それをどうにかするための行動責任も付き纏う。自分の意思を貫くには当然だ。なんとかそれを軸に納得感を得られないかと思っていた。

そもそもの問題は「相手を理解していない」こと。「わかり合えないかもしれない」を避けていること。

とはいえ、行動も何も、ぐるぐると思考を巡る中でほぼ答えは出ていた。

ぶっちゃけた話、腹割って話せばある程度どんなことでも解決することは知っている。相手の価値観を理解し、こちらの思いを開示し、その上で改めてマッチングを図る。これが理想のコミュニケーション。超そうありたい。合理的。

一方で頭では分かっていてもそれができていないというそこそこ重い現実がそこにはある。何が自分を妨害しているのか。

それは「分かってくれるわけないじゃん、大人になれよ」と引き留めてくる、自分の中の自分の気持ちだった。

本当は自分の思いを伝えたい。相手の思いを理解したい、が、「わかりあうことができなかった」と傷つくのを防ぐためにそれをさせない自分がいるのだということにも気づいた。

その得体もしれない恐怖もコツコツ自分が積み上げてきた恐怖であるから厄介だ。過去の自分が大事に作ってきた闇がどのくらいのものかわからない。もしかしたら実は存在しないかもしれない、というのもそれはそれで怖い。それは過去の自分を否定することにもなるから。

自分の損得で相手の感情と向き合うことが、自分のありたい姿に反することに気づく。

結局のところ「自分が傷つくかもしれない」という自分の損得の感情を優先して、相手の感情に向き合うことを回避していることに気づく。

確かに、自分を守る手段としては一理ある。その防衛本能はよくできているし、防衛担当の自分には感謝は尽きない。が、今は違う。その自分に頭をさげてでも、チャレンジしたいありたい姿というものはある。

この「一理あるが、それでも、それは自分のありたい姿に反している」という思いは嘘偽り無く、強い気持ちとして存在した(キングダムの張唐が「毒は……なかろうが……こんなもの武将の死に方ではないわァ」と思ったように)。これが意思決定のキーポイントとなった。自分の損得を考えず、相手に向き合おうと思えた。

そうやって相手の感情と向き合うことで、相手の価値観を理解する。自分の価値観も勇気を持って伝える。その上で、「じゃあ、自分には何ができるか」というマッチングを図るというのがいい関係性なのだろうと改めて思う。

「成長機会の提供」に限らない、自分ができる相手の幸福へのコミットがあるかもしれない。それが「誰かにとって価値ある自分でありたい」という思いを押し殺さず、相手にとっても幸福の関係が築けるアクションだろう。

それをしている自分を思い描くと、以前と違って放漫さはなく、相手に真摯に向き合い、自身ができることを真剣に探していた。そのイメージ上での「自分が今この瞬間、相手にとって最も価値ある存在でありたい」という思いは拒絶したくなるほどのものではなかった。

一度はスルーしかけた感情に、再び辿り着いて納得する。

「相手とちゃんと理解する」至った結論は、思考の過程で一旦通ったことがあった。その時「これだ」と思い切れなかった。でも、傷つくことが怖くて一度スルーした感情でもあった。でも、「傷つくかどうかを気にしてわかりあうことを避ける」ことをしている自分はもっと嫌だった。それは絶対的にありたい姿では無かったから。

そういう思考を経て二巡目、同じ結論に至りかけた時には「傷つくか否かという損得勘定を抜きにして、しっかり感情に向き合おう」という意思決定に至った。神様が授けてくれた思いもしないウルトラCなんかではなく、確信の持てなかったA案に「やっぱこれっすわ」と心から納得していた。

それでもダメだったとしても、ちゃんとその事実を認められる気もする。

---

これが、長いこと避けてきてた自分の嫌いな感情との関わり方に対して出した現状の答えです。そうやって共に向き合ってくださったコーチにも感謝しています。

終わりに

コーチングを受けるにあたって、コーチとの相性はけっこう重要です。ちゃんと目的やバックグラウンドに応じてレコメンドしてくれるサービスがいくつかあるので、是非そこを経由してみてください。


noteの売り上げは自分の応援するクリエイターのために使います!