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「好き」の熱量を率直に鮮やかに客観的に書いて伝えられない3つの理由

noteには「好きな人、事、物」について、熱量をこめて伝え、一気に読ませる記事がたくさんある。
それらの記事からわたしも影響を受け、その人の好きを試してみることも。おかげで自分の好きの世界も広がる。ありがたい。

わたしが密かに思っていることに、同じように好きを感じる人にはうれしくて、親近感が爆発して、コメントを書いたこともある。

わたしも「好き」なことを記事に書こうと思っていた。けれどもエイッと書き始められない。
書けない理由が、3つ思いあたる。

まずそれらを明らかにして、スッキリしたい。
それができたら、わたしも「好き」をもっと素直に鮮やかに綴れるかもしれないので。


「好き」を否定されるとダメージが大きい

わたしはお気に入りのカフェやごはん屋さんには、一人でふらっと行くことが多い。一人で居ると、その空間や飲み物、食事、食器、BGMと向き合って、じっくりと味わえるから。

話の合う人と何時間も喋りたおして、過ごす時間も大好きだが、その場合は話に集中できるお店を選びたい。

大好きなアーティストのLiveにもクラッシック コンサートにもアイスショーにも、たいていは一人でワクワクしながら行く。
連れがいると「この人も楽しんでいるかな」とその反応が気になって、ステージへの集中力が削がれる。それらのチケットは安いものではないし、会場ではパフォーマンスだけに集中して堪能したいのに。
だから趣味が異なる人に、無理には合わせない。またチケットは一人分でゲットするほうが、複数枚の時より、いい席がとれる気がする。

「一人で行けるってすごいね」と、たまに感心されることもある。ぼっちで行動する人は増えているし、周りの視線などもわたしは気にはならない。質問されると不思議な気持ちになるが、楽しみ方は人それぞれ。
「そのほうが楽なんで」と返す。「わたしはプライベートでは、自分はより自分らしくいたいので、それが必要なんです」と心の中でつけ足す。

わたしの好きな場所やイベントに、この人なら好きだろうと思う相手を誘うこともある。
思い切って誘った相手が、その場所を気に入ってくれて、わたしには気づかなかった目のつけどころを見つけて教えてくれると、とてもうれしい。

また誰かのお気に入りに誘ってもらえるのも幸せだ。できる範囲でご一緒して、新しいことを知る貴重な出会い。そこから始まる「好き」にも心が踊る。

同じものを誰かと楽しめた体験は、かけがえのないもので、お互いをより深く知ることもできる。

しかしそうではない場合もある。
「ふ〜ん、こういう感じが好きなんだ」という、否定されたわけではないけれど共感はされない、何かわたしのセンスを値踏みされたような雰囲気を感じた場合。
「ごめん。わたしの趣味を押しつけてしまって」と恐縮してしまう。

好きなものを理解してもらえないと、自分自身の大事な部分を否定されたような寂しい気持ちに、わたしはなりがちだ。

相反する感情だが、わたしは大勢が好きなメジャーなものより、知る人ぞ知るニッチなものが好きだったりする。
好きな人や事がニッチなままで居てほしいから、あえて教えない。ちょっとやそっとでは教えないんだからと、もったいぶりっ子が発動する。
わたしはインフルエンサーじゃないから、影響力がないことは、重々に承知しているが。

そういうアレコレを考えると面倒になり、こっそりと一人で身軽に出かけたり、楽しんだりしているほうが楽チンだ。

だから「好き」をシェアするのを躊躇する。
以上が、「好き」を書けない理由、その1。

ここから「理由その1」への考察。

好みやセンスはもちろん人それぞれ。価値観や感覚の違いを知って、「そうなんだ。それが好きなんだ」とだけお互いに受け止めるだけでいい。それが多様性なんだろう。

現に、わたし自身はそれほど好きでないものでも、熱く記された誰かの「好き物語り」記事を読み切った後、なんだか清々しくなる。
好きを語る、その愛のお裾分けをしてもらえたから幸せを感じているのだ、きっと。

だから堂々と「好き」を綴ってもいいじゃないと、思い直してみる。

イメージを言葉にする技量不足

「好き」への思い入れが大きいほど、客観的になれない。「好き」は理屈ではなく感覚だ。それに相応しい言葉を探しても、何かが違うような気がして、もどかしくなってしまう。

ただ「好き」を伝えるのではなく、それをおすすめする文章なら、客観的な視点も得やすい。相手にとって好きになるメリットを探せばなんとかなりそうだから。

けれども「好き」な気持ちは、直感的なものから湧き上がってくる。役に立つからとか癒されるからだではない、もっとエキサイトする感じ。
それを俯瞰するように捉えて、言葉を探り当てて文章を構成していくのは、高度なテクニックが必要だ。
むずすぎる、わたしには。

わたしの浅い脳科学の知識で考えると、イメージを司る右脳から「好き」が吹き出して、それを思考や論理の領域の左脳で、言葉を探し出す作業をしているのが、そのテクニック。
右脳の感覚イメージを、無理矢理に左脳で言語化して当てはめてしまうと何かが抜け落ちていて、感動の熱量をありのままに伝えられていない歯痒さが残る。

言葉をアレコレこねくり回して考えるよりも、ただ「好き」、ただ「すごい」、ただ「感動」、そのイメージだけを右脳に抱いているほうが、自分の「好きの熱量」を正しく保っていられて、幸せでいられる気がする。

以上が書けない理由、その2。

ここから「理由その2」から思いついたつぶやき。

「好き」の記事を一気に読ませるクリエイターさんは、右脳と左脳を自由自在に行き来しているのであろうか。それは筋肉のように、鍛えれば出来ることなのか? 感動の熱量を具体的な言葉に昇華させ、あたかもその空間を共有しているような筆力は、わたしには離れ業の領域。
その表現や描写に、ただ脱帽し憧れる。

「あなたの感動の熱量を鮮やかにいただきました。その場に居るように、手に取るように、届きました。引き込まれて、同じ気持ちを味わえて感動しました。ありがとうございます」という尊い気持ちになる。

言葉にならないもどかしさも楽しみながら、伝えたい気持ち。人とコミュニケーションしたくなるのは、きっとそういうことなのだろう。
書くだけでなく、話すときでも。

しかし対面で話せば、言葉だけでなく表情やボディランゲージ、声音など、他のコミュニケーション手段もたくさん使える。だから感情も伝わりやすい。

書く時に頼れるのは、言葉や文体、文章のリズムや構成だけ。(他にも感情を伝える「書く」手段があれば、ご教示を)
縛りだらけだからこそ、「好き」の感情を書き言葉のみで鮮やかに伝えられたときは、大きな喜びがあふれるのかもしれない。

言葉を「詩」「短歌」「俳句」などで表現できれば、「好き」のイメージの世界が、もっとイキイキと出せるのかなとも夢想する。

勇気を持って惨めな体験を受け入れる

さらにわたしには、「好き」を素直に伝えられないトラウマな出来事がある。

中学2年の初夏のこと。
わたしは同じクラスで野球部のK君に、中1の後半ぐらいからずっと片想いしていた。
テニス部に所属していたわたしは、コートの脇でボール拾いをするつまらない時間が、いつの間にか一番楽しみなひとときになっていた。
イキイキと白球を追いかけているK君の姿をキャッチするのに、ちょうどよかったからだ。

K君への気持ちはひた隠しにしていたが、半年も経つとダダ漏れてくる。

ある日、百人一首歌詠みの平兼盛と同じ体験をした。

しのぶれど 色に出でにけり わが恋(こひ)は
ものや思ふと 人の問ふまで

百人一首40番 平兼盛


「ねぇ、野球部に気になる人いるん?」
隣でボール拾いをしていたHちゃんに、とうとう聞かれた。

平兼盛は問われたとき、どう答えたのだろう。

わたしは自分の気持ちをずっと一人で持て余していて、もう堪えられなくなったせいなのか、ポロッと口に出してしまった。
「ちょっといいなぁって。K君のことが」って。

すぐさま「しまった」と思ったが、もう遅かった。

HちゃんはわたしよりK君とよく話すし、距離感も近い。彼女はK君に恋心は抱いていないが、でもK君はきっとHちゃんがタイプである。半年間、K君を観察していたからわかる。
Hちゃんは大人っぽいスタイルと顔だちだったが、その見た目とは真逆の天真爛漫でキュートな性格。そのギャップが魅力的なのだ。

Hちゃんと話しているときのK君は、とても楽しそう。わたしにはあんな笑顔を見せない。

彼女はホントに悪気がなく、わたしの片想いを叶えようとして言った。
「K君なら任せておいて。わたしがその気持ちを伝えあげる」と。
全力で断ったが、Hちゃんはわたしが奥手すぎて遠慮しているように捉えたらしい。
その数日後に有言実行していた。14歳のHちゃんは、とことん無邪気だった。

結果はわたしの予想どおり。
K君は自分が好きなのはHちゃんだと伝え、それを聞いたHちゃんは彼を異性として意識し始め、しばらくして二人はつきあうことになった。

Hちゃんからは謝り倒された。謝られると、傷口に塩を塗りこめられるみたいに、さらに心が痛む。
K君は申し訳なさそうにわたしを見て、何か言いた気な感じも伝わってきたが、彼の言葉を聞きたくなかったので、徹底して避けていた。

だからHちゃん経由で、K君からの伝言らしきものを聞かされようとした時、わたしはHちゃんを遮って言った。
「K君のことはもういいから。ちょっといいかなとは思ったけど、本気とちゃうし。二人はお似合いやし、わたしはもう何も気にしてへんから」と。
その後でHちゃんが、何か言ったのか何も言わなかったのかも覚えていない。

中学2年のわたしには、これが精一杯の対応だった。
自分の気持ちに素直に従ったHちゃんとK君も、たぶん悪くないのだろう。

Hちゃんが策士で、わたしを陥れようとする人なら、とことん憎めたかもしれない。
当初の彼女には、自分に気のある男子の想いにも鈍感なピュアさと、「友だちの恋心の扱いは慎重にすべし」という思慮より「友だちの片想いのもどかしさがじれったくて、なんとかしてあげたい」というあっけらかんとした行動力だけがあったのだ。

Hちゃんを責めたり泣き叫んだりしたほうがスッキリして、後々にまで拗らせなかったのかもしれない。
だけど3人は同じクラス、Hちゃんとは部活も同じ。となると、何よりも事態を大きくしたくはない。自意識過剰な14歳のわたしには、学校の居場所を修羅場には出来なかった。

この自分の「好き」という気持ちを第三者に伝えて、その結果「好き」を押し込めてしまった体験が、ちょっとしたトラウマになっている。
「もうあれから40年以上も経つ出来事なのに」と自分に呆れる。
しかしこの際、正直になろう。

「好きなものは一人で、こっそり思っていたい。わたしの好きを奪われたくないから」という気持ちが、わたしの根底にある。それは傷ついた14歳の自分をまだ乗り越えていない部分があるからだ、たぶん。

以上が書けない理由、その3

ここから「理由その3」への思い。

まず勇気を持って、その惨めな気持ちを認め、そして受け入れてみる。noteに書いたことは、その大きな一歩だ。「よくやった、わたし」と、自画自賛!

友だち同士で、夫婦で、親子で、カップルで、同じ空間の「好き」を共有し味わっている人たちを羨ましく思うこともある。
同じものを愛でていても、恋愛のように修羅場にはならない。むしろ「好き」を素直に伝えて、わかり合える喜びを見つけたい。

そしてわたしは、プロのライターじゃないんだし、伝える技術の不足も楽しみながら磨いていけばいいんだ。

必要以上にアレコレと考えなくてもいいのだ、きっと。
気楽に行こう〜🎶




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