ISTP閑話 #2
人間関係って難しいね。
■配信にはそれぞれの良さがある
つい最近、人が開いているゲーム配信を見ることにハマっている。ほとんどは自分がプレイしたことのあるゲームをやっている人の配信だけだが。
大型(数万人規模)から超小型(10人以下)まで見てきたが、個人的に超小型配信には大型配信に無い面白さがある。
人数が少ないので一人一人を大切にするという必然的な状況もあるのだが、何より大型配信と違って荒らしが少ないのが良いところだ。
そもそも荒らしがいたらすぐに追い出されるだろうということもあるが…人数が増えるとコメントの質がどうしても落ちるのだ。
コメントをする行為自体は、深く考えれば「配信者自身に見られるか・見られないか」だけが異なるだけで、人目に付く言葉であるという点は変わらないのだ。
だが、人というのは不思議で人数が増えれば増えるほど倫理観に沿わない行動をしたり、多数の意思に流されて人に対して悪意のある行動を働いたりすることがある。
流し見程度であれば大型配信でもよいのだが、何より超小型配信の快適さを知ってしまったら離れられないのだ。(コメントするのはあまり好きではないのでしないことの方が多いが…)
それに、視聴者にも色々なタイプの人がいて面白かったりもする。
ほとんどは開放的な人が多いので新規であっても受け入れてくれるし、小型配信者側としても見てくれる人がいた方が良い事もあって歓迎してくれる。楽しい。
オススメは謎解き要素の強いゼルダや、自分ではやりたいとは思えないが見ている分には楽しい耐久系のゲームなど。
作業をしながら人の配信を見るのもなかなか面白い。
■裏切る人には一定の特徴がある
自分は学生の頃からSNSをやっているのだが、ここ数か月間で仲良くなった人がいた。元々多くの共通の趣味があったので、きっかけは向こうの方から話しかけてくれたことであったが、とても気さくな人だったのを覚えている。
その人と仲良くなれたのも、共通の友人がいたのもあったのだろうと思うのだが、思えば話をするようになった最初から直感的な違和感はあったのだ。
そしてつい先日、その人がSNSのアカウントを削除していなくなったのだ。
別に何かしらの大きなトラブルがあったわけでもない。共通の友人にも確認したが、何かの直接的な要因があったわけではないだろうと言う。
自分は昔から、ある一定の特徴を持つ人に好かれやすいという傾向がある。
それは、自分が他の人よりも精神的に不安定な人に好かれやすいということだ。所謂「メンヘラホイホイ」的なやつだと思われてもおかしくはないと思う。
よくこの手の話題で上がるのは、「卵が先か鶏が先か」というような話ではあるのだが、自分の場合は元々精神的に弱い、もしくは脆い気質のある人が好むであろう傾向を持っているだろうということだ。
要は自分は「メンヘラ製造機」ではないということを言いたいわけだが、その理由も明確に存在している。
というのも、好んで近づいてくる人間が全てメンヘラではないと仮定するならば、先ほど述べた一定の特徴に関わる違和感も一部の人間にあると感じるだけで全ての人間にあると感じるわけではないからだ。
今回の「ずっと親しくしてくれていたのに急に消える人」も、少なからず自分が今まで見てきた一定の特徴を持っている人であるだろう。
これは経験に基づく記録なのであまり説得力もないが、そういう人についての特徴は以下になる。
・外的要因の有無にかかわらず、日常的に気分の浮き沈みが激しい(=自己肯定感の低さ)
・理由もなく人前で必要以上にポジティブに取り繕おうとする(=人目を気にしすぎる)
・辛いことや悲しかったことについて、他人に打ち明けない(=人によっては人間不信もある)
・表面的に他人の感情や態度に共感するが、自分の感情については何も言及しない(=人と深くかかわりたくない回避的な行動)
・やや独りよがりな節がある(=自分さえ守れれば良いので他人に相談しない=突然連絡先を断つなど)
など…
上げればキリがないが、このような人達は共通して目に見えない壁というのを他人との間に作りたがる傾向がある。
そして話を戻すが、今回の人も恐らくそうなのだろうという仮説が立てられている。
後になって共通の友人に確認した時、その人にはリセット癖があったというのも事実だ。だからと言って自分が何もしていないと言い切れるだけの証拠もないので、必ずしも本人だけの問題ではないだろうと思うが…。
通常、と言ったら変な話にはなるのだが、人間関係をリセットするというのも今でこそ当たり前のことのようになっているが、実際「楽になる手段」としては有効こそ、判断としては極端過ぎるだろう。
自分は共通の友人からその人のリセット癖について聞いた時、その人から突然関係を断たれたことは悲しくもあったのだが、それ以上にその人について精神的な問題があることが気になったのだ。
例えば、どんなにエネルギッシュな人でも、疲れた時に一人になりたい時もあるだろう。そこで、ストレス発散方法として「外に出かける」とか「新しいゲームをしてみる」とか「大好きな友人に会ってみる」など、解決方法は人によっていくらでもあるはずなのだ。
それなのに、そこにある人間関係をすべて断ち切るというのは、些か極端過ぎるのではないかと思う。もっと言うならば、問題は人間関係をすべて断ち切ってしまうことよりも、そういった極端な方法に頼ってしまうような0か100かの思考や判断なのだ。
暫く良くしてくれた人だったので、上記に書いてあるような違和感はあったのだが…黙っていたのも良くなかったのだろう。意外と勘というのは的中するらしい。
共通の友人曰く、距離を置こうかと思っていたと聞いてまた驚いたのだが…少なからず、必要以上に彼女に気を遣わせてしまったかと思うと悔やまれる気持ちもある。
しかし、今回の件について友人が自分に対して代わりに怒ってくれたり「貴方は悪くない」と言ってくれたことが嬉しかった。もちろん、感謝もした上で今後も彼女の事を大切にしていこうとも強く思う。
余談にはなるが、リセット癖をする側からして「リセットしたくなるほど追い詰められている時もあるのだから大目に見てほしい」なんて意見もあるが、そのような主観的な意見もあっても良しとしたところで、そういった人達が「リセットされる側」の感情について何かを考えていることなど、ほとんど見たことが無いのだ。
リセットしがちな人たちが気が向いたらまた繋がってほしい、なんてよく言うのだが、最初から好いてくれている人を自分から突き放しておいて、気が向いた時に良い顔にしに来る人を人は信じられるのだろうか?
少なくとも自分は良い気はしない。
個人的な事情に関して深く追及したり、勝手に連絡先を断つことをしてはいけないのだと正義を掲げるなんてことをするつもりはないが、自分はそういう人を人として身勝手なように感じるのだ。
「仕方のないこと」だと言われても、やっていることは好意に対しての裏切りのように感じられるのだ。リセットをすること自体を悪いとは言わないが、それをするだけ損をしていることも事実だろう。
■外向的な性格はかなりお得だったと気づく時
自分は昔付き合ってた友達間のいざこざ、強烈な裏切りから内向的な性格になった。16タイプ的に言えばESTP→ISTPという感じで。
元々人は好きだったし人懐っこい性格だったのだが、何をどうしてか人の憎悪や腹黒い部分、貶したがりや下に見る汚さのようなものを目にし続けて、疑い深く、面倒臭い性格になってしまったように思う。
そもそも、一部を除いて「人嫌い」なんていうのはほとんど神話のようなもので、人に受け入れられなかったり嫌なことをされたから人を嫌いになった(=元々人が好きだったのに嫌いにならざるを得なかった)のがほとんどだろう。
自分も例に漏れずそうなのだが、内向的でありながら人に対してオープンなのは人が好きだからだ。というか、人が好きでなかったらTwitterもやらないし配信もしてないしnoteも書かないし作業通話とかしない。どこでやってるかはさておき。
外向的な性格だった時からずっと思っていたことだが、何となく自分は生まれの環境から極端な価値観に晒されてきたから、きっとどこか歪んでいる部分があって、明確には言い表し難いが万人ウケしない性格なんだろうと思っていた。
昔から人をよく観察することが好きで、相手の気持ちについて考えることが好きだったから、他人にはどうしてそうまで分かるの?と言われたこともあった。特に、学校の先生にはよく気に入られていた。クラス分けで良いように扱われたから嬉しくはなかったが。
何の気無しに気にしないようなことを、どうしてそう思うんだろうとか、どうしてそんな心理に陥るんだろうなんて考えては調べたりを繰り返していたものだから、人の嫌な部分を目の当たりにすると「あ、もしかしてこの人こんな人間性の人なんじゃないか…」なんて考えたりする。
自分にとってはそれがある意味その人と付き合い続ける良い指標になったりもしたものだが、相手からすれば早計だったかもなんてこともある。大体当たるけど。
だから、人の悪い部分を見ている内に人懐っこい自分の気持ちが「あれ?意外と人って悪い人ばっかりなんじゃないか?」にすり替わっていて、いつの間にか外向的な自分はいなくなったように思う。
それからは深い人間不信が始まって、コミュニケーションは疎かになるし、ふと話している時に余計な知識から嫌な憶測が先立って、ああ、あの人懐っこい自分がまだ残ってたら気楽に生きられたかもしれないのに…なんて時々思ったりする。
自分が外向的な人だったからよく分かるんだが、外向的な人は大抵他人に対してポジティブな価値観を持っている。それには、周りがその外向的な人のポジティブな価値観を守ってくれているから成り立ち続けているとも言えるのかもしれない。
ポジティブなコミニケーションがあるから余計なことを考えずに気楽に生きられるのであって、外向的な人がネガティブなことに鈍感でいられるのも、ある意味周りの支えがあってこそなのだと思う。
自分の場合は、他人同士の嫉妬とか足の引っ張り合いを見る内に本当に他人が嫌になってしまった。だから人嫌いではあるんだが、心の奥にある気持ちは人が好きだからおしゃべりするのは楽しいし、出来るならオープンな心で話したいと思っている。
なので腹を割って話すことに抵抗があるんだが、これには人が好きよりも自分の価値観や心の綺麗さを保ち続けたいというエゴもある。
自分の価値観や生き方にこだわりがあって、他人が好きだから、他人の嫌なところで自分の大切なものを汚されたく無いという気持ちだろうか。
あくまでオープンでいたいが、他人の嫌な部分を受け入れられないほど自分の中の心の器がひび割れてしまっているから、オープンでいるにも限界がある。
本当は受け入れられるなら受け入れて話したいけど、もうどうにもできないらしい。
だから適切な開き方でオープンでいるように努力しているのだが、これがまた人によってどこまで近づいてくるか分からないから人間関係は難しいのだ。
自分の心が不良品になってしまうと、そっちの手入れもしながら他人との距離感を測らないといけなくなるから。
外向的で人に対してポジティブだった時、先述のことなんて気にしないで人とキャッキャと遊んでいたものだが、まさか自分が気疲れして人と関わるのは難しい人間になるなど思いもしなかった。
優しさというのも千差万別で難しい。
おそらく自分は堅物で柔軟性はほどほどにあるが、不器用だから人に合わせ続けるのはできないし、感情面のサポートなんて特に苦手なので投げ出したくなる時さえある。
ある意味、自分が技術や人でない物に対して絶対的な価値を感じているのも、人のように時間が経っても考えや形が変わったりしないからだと思った。
一般的に言うなら、ペットは飼い主を裏切らないと同義だろうか。
歪んだ人と接しすぎると自分まで捻くれてしまうとはよく言ったものだが、多分自分もきっとそうなのだろう。
一歩間違えれば他人への憎しみにもなりうる感情を、善意だけで留まっていられるのも、今まで自分を大切に思ってくれた人がいたからというだけで、奇跡かもしれない。
それが所謂、義理堅いということなのかもしれないが。
よく、色々な人から優しすぎるなんて言われたりもしたが、自分はただ元々人に対しても自身に対してもポジティブだったから、人に対しては常に優しくありたいし、それなりの愛情を持って接していきたい、それだけなのだ。
人によっては汚い感情がなさすぎて人間味が無いなんて思われて、逆に遠ざかられてしまうなんてこともあったのだが。だが、人間関係なんて大体運とタイミングと相性次第なので何とも言えないね。
ネガティブな感情を持っていても良いことなんてないから、本当はあまり後ろ向きに物事を見るのは好きでない。感情は伝播するし、無意識でも影響を受けるから、できるならポジティブなメッセージを出していった方が得で互いに楽しいと思う。多分ね。
分かり合えないなら分かり合えないでも良いのかもしれない。
ただ、自分が万人受けするような性格ではないから、それだけは本当に損をしているなと常々思っているが…