元旦祈願から芋煮会に見る連続性と、ノイズにならないための葛藤
いつも好きな神社にノリでご祈祷を受けるのだが、今年は初めてド元旦に氏神様でご祈祷を受けた。
ソロが私だけでほか家族連れ。
係の人は「あ、お連れ様は…?」と一瞬困惑の様子。
そうか、ド正月の氏神様でご祈祷を受けようなんて考えの人間は、通常真っ当に子孫繁栄してるよな。
しかも私だけ神恩感謝。
他の人は家内安全。
モチベが、ノリが根本的に異なる。
世の中の多くの人間らがいかにナチュラルに番い、繁殖しているか。
社会とはコミュニティの連続で構築されていることを、しばしば強烈にわからされる。
ひとりで海外旅行も焼肉もミシュランのランチも行ける私が、行くことを憚られる数少ない場所の一つが地元町内会の芋煮会だ。
家族や、友達、パートナー、はたまたペットをつれて賑わう公園の芋煮会会場で、中年女性がひとり座る席もなく、話す相手もなく、寄る壁もなく、芋煮をすすっていたらどうだろう。
一人で寂しい、あるいは寂しそうと思われるのが嫌だといった感情とは少し異なる。私が一人でいる理由を理解してもらう必要はない。
ただ、自分がコミュニティの連続に現れるノイズのような存在になりうる事が忍びないというか、ここは私の居場所ではないと感じることはすこし寂しいのだ。芋煮好きなのに。
ド正月のご祈祷は芋煮会の延長線上にあったのだ。
そういうことだ。
御札の付録の御神酒飴がすごく美味しかったのでまた来年もお参りはすると思う。
たぶん神様はわかってくれる。