いつかの月ひとめぐり #29 光
しばらくテーブルの前で立ち尽くしていた。悠希の手を前に出す動作で正気に戻され、促されるがままにとりあえず、2人掛けテーブルの小洒落た椅子に腰掛けてグルッと店内を見回す。赤と黒の2色を基調としていて、およそ30人くらい分の席が用意されており、無垢っぽいフローリングに大きな観葉植物、壁の木製棚には洋書ズラリ。なるほどオシャンティなカフェって感じだ。
「何か頼む?」
悠希がメニュー表を寄越してきた。さっきまで蕎麦屋で水やら蕎麦湯やら飲んでたから喉は乾いていない。でもここで頼まないと、まるですぐに席を立つつもりみたいな印象を与えかねない。適当になんか頼んどくか。
水差し持って彷徨いているスタッフを呼び止め、カフェラテを注文した。さてと。息なのか唾なのか分からない何かをゴクリと飲み込み、俺は姿勢を正して悠希と向き合う。あちらも俺の動きに合わせて背筋を伸ばした。
「答え決めて、ここに来た。お前も言いたいことあるだろうけど、まずは聴いてほしい。嘘偽りない、今の俺の気持ちだ」
「……うん。ちゃんと聴く。ずいぶん待たされたけど」
「あのな、俺は……。俺は伍香と一緒に生きていくことにした。5月の初め、実家に戻った時はすぐこっちに戻ってくるつもりだった。兄貴が退院して、リハビリが始まって、俺は伍香に、長野に帰るって伝えた。そしたらアイツ、キレやがって。家を飛び出したんだ。夜になって見つけて、もう一回ちゃんと話した。アイツはずっと、俺と一緒に暮らすことを望んでた。こんな、仕事辞めて無職になった、どう見ても仕事のできなさそうな、家事だって苦手で、人の気持ちも考えられないような親でも、それでも必要だって言ってくれた。大好きだって、言ってくれた。そこまでされて、やっぱごめん無理だなんて言えなかったんだ。だから伍香のために、知多で暮らすことにした」
「伍香ちゃん、ホント良い子ねぇ。大事にしなきゃ駄目だよ。それで? その話を私にして、毅は……、ごめん。まず聴くんだったね」
ソーサーに乗ったカフェラテがテーブルに置かれた。白い皿、青いカップで、フォームミルクに茶色の渦巻き模様が描かれている。ひと口だけラテを喉に通して、俺は続ける。
「俺は、お前を知多に連れて行きたいと思ってる。伍香も賛成してくれた。そう思ってるのは俺自身、お前が必要だからだ。伍香の母親になってほしいわけでも、身の回りのことをしてほしいわけでもない。俺は、お前と一緒にいたいんだ」
悠希はじっと俺の目を覗いていた。しばらくして、ふっと目線をテーブルに落とし、右手の人差し指でテーブルをタップしたり、長い髪を耳にかけてみたり。これ以上俺から何の言葉も出てこないと確信したのか、上目遣いで俺を見て喋り始める。
「要は、伍香ちゃんのために戻るから、ついて来てくれないかっていう打診ね。それで間違いない? 毅は伍香ちゃんと暮らす。私は……せっかく昇進が決まってるのに突然会社を辞めて、知多で何をすればいいのかしら」
「それは、そうだな。えと……せ、専業主婦とか?」
「じゃあアンタがしっかり働くのね。伍香ちゃんと私を養えるだけの生活費と、まさか実家にいるわけでもないだろうしアパートの家賃、光熱費に税金、そのほか突然の出費だってある。化粧品だって欲しいしちょっとした贅沢もしたいな。たまには旅行とかも行きたいよね。伍香ちゃんが大学に行きたいって言ったら幾らかかるんだろ。無職のアンタに今後一切私に、私と伍香ちゃんに苦労させないっていう約束ができるの? 誓える?」
「最初は、……野月の家で暮らそうと思ってる。金が貯まったらアパート借りて、それで……」
「結局、親頼みなんじゃない。いい歳して親の脛かじってる男の何に惚れろって言うのよ。もっとちゃんと稼いで、一生懸命働いて妻子を養ってる男なんてごまんといるの。独身であぶれてるイケメン仕事ラブ人間だっているだろうに、どうして何もせずブラブラしてるだけのアンタを選ぶと思うの。今の自分、鏡で見てごらんよ。よくもそんな……、自分勝手な言葉で……」
悠希は財布から千円札を取り出し、テーブルに叩きつけた。
「荷物は自分で箱詰めして知多に送ってよね。勝手に部屋入っていいから」
こちらを一瞥もせず、強い口調で言い放って立ち上がり、スタスタ歩いて行ってしまう。やっぱダメだったか。あちらの言葉に一理どころか百理も千理もあり過ぎて追いかけようとする気力すら生まれてこない。すでに俺の頭の中では、知多へ帰ってどんな言い訳をしようかという惨めな自己保身のためにリソースを使い始めていた。
──目の前を光が横切っていく。
慌てて光を追う。小さな光は、素早い動きで店内を漂っている。目の動きだけでは追いつけず、頭を振り体を捻り、最後は椅子を離れて近付こうとする。が、その淡い光はガラス窓を通り抜け、外側の暗闇へと旅立つ。
すぐリュックを右肩に背負い、大急ぎで会計済ませ店から飛び出す。どこだ……。あれは、伍香を探してる時に山頂へと導いてくれた光と同じ。動きも光量も、ピンチのタイミングに現れるってのもソックリだ。
夜景の一角に、遠ざかる光を見出した。悠希を追いかけるべきなんだろうけど、なんでか俺はその光の行き先が悠希だと確信していた。走りながら考える。あいつは違う言葉を望んでいた。それは何だ。俺は何を失念してるんだ。何かあるはず。さっきの悠希の返しの中に、きっとそれはあるはずなんだ。考えろ、考えろ。俺はあいつに自分の気持ちを伝えた。ちゃんと言葉にした。でもあいつはそれを自分勝手な言葉と言った。苦労させない約束できるのかって。……約束?
「そうか!」
俺は足の回転を早める。暗い路地の曲がり角も体を傾けて走り抜ける。日頃のランニングの成果を全部出し切ろうとアルファルトを蹴りつけ前のめりの姿勢で一心不乱に光を追いかける。
もう少しで届きそうだ。……もう少し。捕まえようと思い切り左腕を伸ばす。何か掴んだような感触。つんのめるようにして、俺は足を止めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
……悠希の左手を掴んでいた。いきなり後ろから手を握りしめられたことに驚き、悠希は立ち止まりこちらを振り向く。その両目から溢れた涙が、街灯からの明かりを反射して煌めいている。
「なによ。まだなんか言いたいことがあるわけ? もう話は終わったじゃない。私さっさと帰ってイベント参加したいの」
強がりな表情でそう言う悠希の左手を引っ張り、体勢を崩させて、強く、強くありったけの力で彼女を抱き締めた。
「ちょっと、痛いよ」
しまったやり過ぎた。両腕の力を抜いて、それでも離さず。
「俺は、お前を知多に連れて帰る。約束したんだ、伍香と。母親になってほしい。それが伍香の望みだ。……だから絶対連れて帰るって、そういう約束を、してここに来たんだ」
「どうやって生きてくのよ。毅だけじゃ無理って言ったでしょ。だってアンタ、また仕事転々とするだろうし」
「もう逃げない。絶対逃げないって約束する。俺はお前と、伍香のために生きる。どんな辛い仕事でも、キツい仕事でも、絶対辞めない。弱気になったら引っ叩いてくれていい。弱音を吐いたら思いっきり殴っていい。お前の鞭で俺を馬車馬みたいに働かせてくれ」
「どんなSMプレイよぉ。それに私だってまだ仕事したい。専業主婦なんてヤダ。伍香ちゃんに、格好良い女性って思われたいんだもん」
「伍香、に……?」
俺の背中に両腕を回してきた。抱き合う状態となり、彼女の息遣い、動悸、鼻を啜る時の音と振動さえも余すところなく伝わってくる。髪が靡くたび、鼻を掠められてこしょばゆい。何度も体を重ねてきたはずなのに、今までで一番、近くにいるように感じられる。
「私だって伍香ちゃんのこと、大好きなんだよ。伍香ちゃんのためなら、そうね、仕方ないね。あーあ、せっかく頑張って昇進したのにぃ。本当に……、頑張ってたんだよ。毅の分も稼ごうってさ……。毅がコロコロ転々するから、私だけでもちゃんとしなきゃって。まぁ、ゲーム優先の日もあったけど」
「知多に行っても、仕事したいなら止めないよ。でも悠希だけに任せたりはしない。俺も頑張る。伍香にも仕事できるパパって思われたいしな」
「是非ともそうしてください。で? 本当に最初あの家で厄介になるの? 私は別にいいけどお母さんとか嫌がらないかな。やだよ私、針の筵みたいな生活」
「離れがある。ボロボロだけど、あそこを直してしばらく住もう。本気になったら2週間くらいあれば直せんだろ」
「えぇー、まさかあの、隅っこの今にも潰れそうな建物ぉ? ヤダヤダ! そうだ、私のお金でアパート借りよう。貯金はちょっとだけならあるよっ」
「ダメだ。もう決めたんだ。あの小屋を直して住む。寝るだけのスペースがあれば問題など、ナイッ」
「なんであの廃墟にこだわってんの……。てかさ、この話、別にここでしなくても良くない?」
道行く人々の目を気にして離れようとする悠希を、俺はもう一度強く包み込んだ。
「4年前、俺がダメダメだった時に、お前が暗闇から拾い上げてくれた」
「……なんかね、捨て猫みたいで放っておけなくて。母性本能かなぁ」
「仕事コロコロ変わってその度に調子崩す俺を、傍で支えてくれた」
「それは反省してほしいな。結構大変だったんだから」
「知多に帰った俺のことを気にして、窪田さんに土下座までして来てくれた」
「あの人、私が土下座したことまで話したのぉ? ……内緒って言ったのに」
「愛してるって、言ってくれた」
悠希は、俺に体重を預けてきた。正直ちょっと重いが、なんとか踏ん張って耐え、彼女の温もりを一身に受け止める。
「それが私の気持ち。私は毅を、愛してるよ。きっとこれからも」
「俺もだ。これからはちゃんと言う。愛してるって、毎日言う」
「言ったね。その約束破ったらどうなるか、分かってるの?」
「破らないよ絶対。俺はお前を愛してる。愛してる。ずっと、愛してく」
街灯が照らしつけ、俺たちの重なった影は路地に落ちる。ふと見上げた夜空には幾つもの小さな淡い光。それは交差しながら、あるいは螺旋を描きながら、それぞれどこかへ思い思いに飛び去っていった。