いつかの月ひとめぐり #17 縁
「左足をもうちょっと前かな。歩幅が合わないから変な歩き方になるんだろうよ。兄貴もう30分歩きっぱなしだ一回休もうぜ」
伍香が学校へ向かった後、病気で弱った体を動かしリハビリする兄貴に付き添う人生リハビリ中の俺。いや俺のことはどうでもいいとして。1週間ほど寝たきりだっただけでも両足の筋肉は痩せ細ってしまっていたようだが、肉食って毎日歩くうちに自身の体重を支えるられるほどになってきていた。けど無理は禁物、無茶しないよう俺が兄貴のブレーキ役を演じている。
「あと1往復したらな。早く杖なしで歩けるようになって、あの山に登らないと」
「どうして山登りに執念燃やしてんだ。あそこから大した景色が観られるわけでもないのに」
「なんかさ、低くても山頂まで登ったっていうのが自信になるんじゃないかって。お山の大将を気取るつもりはなくても、区切りとしては良さそうな気がするよ」
「区切りねぇ。なんだ、木野さんに告白でもするのか?」
「何を言ってるんだお前は。木野さんはそういうんじゃない。早く仕事に復帰しなきゃ色んな人に迷惑がかかるだろ」
兄貴は顔色一つ変えずにそう言い放った。なるほど特に脈は無いのか。てっきり入院中にイイ感じになっているものと思ってたけど、無駄にオクテなのは相変わらずだ。このままじゃ野月家の跡取りは伍香になってしまうかもしれねぇな。
兄貴は右手で松葉杖のグリップを掴み、きわめて慎重に立ち上がる。両足を真っ直ぐにさせて姿勢良くなったところで俺が松葉杖を取り上げ、兄貴は自力にて歩行訓練を始めるのだ。
──プッ、プアォーン!
間抜けなクラクションの発生源に目をやると真っ赤なSUV。目を凝らして運転席を……あァ窪田さんだ、今度は自分の車で来やがった。彼はフロントドアを開け、のっそり高い背をのぞかせこちらへ振り向く。
「野月くーんッ! また来ちゃったァ!」
午前遅くの強い陽射しを跳ね返す屈託ない、ニッコリという擬音がとても的確だと思われる笑顔。俺のことを恋人か何かと勘違いしているような言葉を大声で投げかけてきたぞオイ。俺は何度か目をこすり、やっぱ本物だと確信した上で緩やかな坂を上がり窪田さんの前へ出た。
「えっと、平日ですよ?」
「有給休暇でぇす。いっぱい貯まってたからね。就業規則読んだら使わないと消えちゃうらしいしキミのせいで忙しいけど色々放っぽって来ちゃったナハハ」
「ここに来なくたって、釣り堀は全国にありますよ多分」
「でもキミと一緒に釣りをするにはココじゃないとダメだろ。だから……」
「来ちゃった、と」
「その通り! イエイ!」
元気良く返事したら何とかなると思ってるっぽい。あー、ピースしてるよメンドイな。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
兄貴を窪田さんの車に乗せて野月家まで運んでもらい、単身ポイッと降ろした。母さんから握り飯2つ頂きそれをふたり頬張りながら、窪田さんの運転で釣り人に開放されている漁港の釣り場へ。彼によれば前回の釣果である小さなマダイ3匹ぽっちは失敗判定だったらしく、今回ロッドや仕掛けをキス釣り用に変更しているのだとか。そうですかとしか返しようがないけれど、本人はとっても楽しそうだから放っておこう。
釣り針にえぐい色したエサを引っ掛け、窪田さんは右手に持ったメッチャしなる釣り竿をシュンと振る。岸から離れた仕掛けは随分と遠回りな軌道を描いて飛んでいき、遠くの海面でポチャった。彼により用意された折り畳み式チェアに座って、蒼くだだっぴろい海を臨む。
「さて、じゃあ魚ちゃんがかかるまで近況の確認でもしましょうかね」
「あの窪田さん。もしかしてですけど、悠希に頼まれました?」
「あれ以降は一切関わってないよ。そもそも連絡先の交換すらしてないし、もうキミのアパートに押しかける用事だってありゃしないんだ」
「じゃあ、俺がここに居なきゃどうするつもりだったんですか」
「普通にひとりでこう、釣りして帰るだけ。言っただろうボクは釣りをしに来たんだよ。ホラどう見ても釣り人の格好だろ」
そう言って彼は防水性に優れていそうな薄いベージュのジャケットをヒラヒラさせた。しかしなんだか嘘クセェ。瞳孔の開き具合とかじゃなく、昨日悠希から電話があって今日すぐこの人が訪ねてくるっていう状況よ。前回と一緒じゃねぇかやっぱ限りなく嘘っぽい。まぁでも、俺の話を聞いて何か得することもないだろうし、うーん。なんだろうなこの違和感&不快感。
「俺は変わりないですよ。娘にはまだリフレッシュ休暇中ってことにしておいて、この先の身の振り方考えてるんです。長野に戻るのは、ちゃんと自分の向かう先を決めてからにしようと思ってます」
「……ふーん、そうなんだ。長野に戻るのは確定なんだね」
「そりゃ、まあ。自分のアパートが……じゃなくて。悠希は長野にいて、長野で仕事してあそこで生きていこうとしてるんです。俺もそうなると思うけど、思うってくらいじゃダメなんです。自分が納得して周りにこうしたいんだって、胸張って理由付けて説明できないと」
窪田さんはリールハンドルを回し、うねる海面をジッと睨みながら何やら考えている。彼の考えと今の俺からの答えを擦り合わせているのか、はたまた別の質問を体内から取り出そうとしているのか。黙って待っているとやがて、細い目を開けた彼の口から声が漏れ出してきた。
「ボクには子供が1人いる。大学生の息子だ」
エェー……カミングアウトぉぉ。そうきたかぁ。
「若かりし頃の過ちでね。結婚はせず、ずっと養育費を払い続けてたんだ。もうすぐ20歳だからそれも終わり。大学の費用はボク持ちだけど。正式に会ったのは……2、3回ってとこかな。県内に住んでるからたまに様子を見に行ってた。母親に似て元気な良い子だよ」
「えっとぉ、どうして結婚しなかったのかって。とか訊いてもいいですか」
「もう訊いてるじゃない。その子がこの世に誕生した時、彼女は他の人の奥さんだったんだ。旦那さんが浮気してたから彼女も当てつけだったのかな、ボクとしきりに会うようになった。で、子供が出来てしまった。周囲の反対を押し切って彼女は生んだ。それで旦那さんと別れて実家に戻った。好きでもないボクとはもちろん再婚せず、あなたの子なんだから養育費だけ頂戴ってね。ボクは相手の旦那さんへの慰謝料を払い、我が子の養育費も払い続けていたわけです」
サラッと壮絶なことを言いよる。自業自得とはいえ俺よりかずっと大変な生き様だな。
「窪田さんはただ損をしただけなんですね」
「ソン? 全然違うな。ボクは夫婦関係っていう面倒くさいモンを神回避して子孫を残すことができたんだ。慰謝料も養育費も大学の費用も、家族を維持する生活のストレスに比べたら屁でもないでしょ。離婚経験者の野月くんならこの気持ち、痛いくらい分かるよね」
「……うーん、まぁ、分からなくもないというか。そもそも子孫残す必要あります?」
「だってボクたちは生物なんだ。DNAがね、それを望んでいるんだよ。ほら確か誰だっけあの。そうそう、ドーキンスも言ってたろ我々は生物機械なんだってさぁ」
誰だよそれ聞いたことねぇよ。
「じゃ、じゃあ窪田さんとしては、それで満足だと」
「ウンそう。親子のかたちってのはさ、色々あると思うんだ。ボクにも兄がいて、5年前フィリピンに出向して、むこうで家族を作って暮らしてる。グローバルな会社だけど、いずれは日本に戻ってきて取締役とかになるんじゃないかなぁ。だからウチのことは兄に任せておけばいい。ボクの息子は別の血族の跡取りとして暮らしていくだろう。どうだいボクは生物としての使命を全う、なおかつこれからも好きなコトだけして生きていけるんだ。大大大満足!」
「……あれ? もしかして、俺の背中を押そうとしてくれてます?」
「どうだろうねぇ。ボクの話を聞いてそう思うんなら、野月くん的にはそれなりに答えが出てるんじゃないかなァ」
なんかすっとぼけてるような。やっぱこの人、俺に会いに来たんだな。
「悠希になんて言われて、ここに来たんですか。もう嘘はやめてください」
「あららバレちゃったか。ちょっと喋り過ぎたのが敗因かな」
スマホをシャカシャカズボンのポケットから取り出し、こちらへ向けてきた。SMSの画面には悠希の電話番号と簡潔なメッセージがひとつ。
『たけしに発破をかけてきてください。一生に二度目のお願いです』
「これだけ。どうして実田さんがボクの携帯番号を知っていたのかなぁ。ま、これは憶測だけれども、野月くんが寝てる間に指紋認証か顔認証でスマホを覗いたんじゃないかと思うね」
「このメッセージだけで、発信元を疑うこともなく来ちゃった、と」
「来ちゃった。だって面白いんだもん」
「二度目のお願いって、一度目はアレですか前に来た時の」
「そうそうあの時はねぇ、すっごい剣幕で頼み込まれて困ったもんだ。たまたま次の日が休みだから車を走らせたけど、疲れた疲れた。あれは実田さんの、キミに対する愛の力に圧倒されて言いなりになっちゃったんだなウン」
「どうしてそんなに俺たちを……あ」
「おお、かかったぞ野月くん! タモ用意してホラっ!」
一回釣れたらその後もドンドン釣れる。入れ食いってやつだ。話もできないほど忙しくなり、クーラーボックスが大漁のキスにより埋まったところでお開き。野月家へ戻る車中でずっと、熱っぽく釣りの講釈を垂れる窪田さん。結局この人、何しに来たんだろ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
まだ親父は帰っていないようだ。雑草だらけの駐車場に停めてもらい、リアゲートを開いて重くなった発泡スチロール製のクーラーボックスを降ろす。足音に振り向くと伍香がTシャツにハーフパンツという軽装で突っ立っていた。
「今日はキスがいっぱい釣れたぞ。これどうやって料理するんだ?」
「キスなら、天ぷらかな。あたしは油使えないから、おばあちゃんにお願いする」
「よっし。じゃあ野月くん、またなッ!」
「今日も釣るだけで食ってかないんですね」
「名古屋にホテルを予約してあるんだよ。熟……コホン、夜の街も探索したいからね」
「怪しいおじさん。この前のクーラーボックス返そうか?」
「ああ、アレは差し上げる。あとボクは怪しくないぞ。彼の──」
窪田さんはリモコンのスイッチで電動リアゲートに指令を送り、その動作を確認することもせず運転席へ乗り込んだ。そして助手席側のウインドウを下げて大声で言い放つ。
「キミが仕事を辞めた今でも、ボクたちは友達ダヨォォーん!!」
ハイ終わり。あ、まさか俺が「嘘はやめてください」って言ったからか?
怪しいおじさんはアクセルを踏み、スーッと車を滑らせて出て行きやがった。残されたのは嘘が嘘だとバラされた俺と、嘘を嘘だと報された俺の娘。首ギギギ……。伍香殿はクーラーボックスを開けたまま、俺を訝しげな目で睨みつけていらっしゃる。
「ねぇパパ。あの人、パパがお仕事やめたって言った」
「言ってました……っすね」
「パパ、お休みとってるだけって言ってた」
「言ってましたな……えぇ、はい」
しばらくの無言。目は合わせたまま、表情も変えず。次はどうくる? どう攻めてくんだ。
「……もういい。パパは天ぷら、無しだからね」
「あ、そうっすか。分かりました」
最後に眉を顰めて、プイっと顔を背けた伍香は閉じたクーラーボックスを抱えて走り去る。怪しいおっさんは絶望をもたらすだけの使者だったらしいクソッタレが。