いつかの旅ひとめぐり #26 突入
水平線に浮かぶ狂ったような橙色の朝焼けを観ながら、草木濡れ木々の葉揺れる小径を駆け抜けていく。こっちに来てから週3くらいのペースでランニングしていただけあって、さすがに多少長く走っても息切れしなくなってきた。腕につけられた傷もほぼ見えなくなったし、なんだか色々あって半年ほど経ったような気分なんだけど、まだひと月ぽっちも過ぎてないんだよな。
「はよっすパパさん! 今日も走るの遅いねっ!」
「うっせぇ。健康のためなんだからこんくらいでいいんだよ」
しばらく並走した後、自販機横のベンチで休憩、休憩。レイのスピードに合わせてたら疲れちまった。ポケットから生の500円玉を取り出し、コイン投入口へ入れようとしてふと手を止める。
「……なんか飲むか」
「えっ、いいんスか? じゃあ、コーラがいいかな。ずっと飲まずにいたから」
レイのコーラと俺のコーヒーを連続で購入し、やたらと水滴のついたそれらを取出口から入手してベンチに座る。レイは恭しく頭を下げ、俺の手からコーラの入った缶をスッと奪った。
「どうしてコーラ飲まなかったんだ。スポーツ選手だって飲んでるだろ。カフェインはスポーツに良い作用があるって聞くぞ」
「中1ん時、初めて負けた試合の前にコーラ飲んでたの。だからコーラ飲むと縁起が悪いのかなって思ってやめてた。でももう部活は引退したし、飲まなくても負けたんだからもういいや」
「ああ、ゲン担ぎってやつか。俺もそういうのあったなぁ。ところでお前、もうソフトボールやめるのか?」
「やめるわけないよ。おか……ママを甲子園に連れてくって約束したんス」
「ソフトボールの大会は甲子園じゃないだろうが」
「え、そうなん?! むぅ、まぁいいや。とにかく高校でもソフト続けて全国に行く。そういう約束した」
相変わらず適当なヤツだ。でも、もう試合に負けたことを笑って話せるくらいまで回復したんだな。香織を連れて帰らなかったらどうなっていたことか。
「ルイさんは何て言ってる? あれから香織と話してないんだけど、どんな感じ? あいつ家に居られそうか?」
「色々訊きますねェ……。ばあちゃんはそっけないけど、追い出そうとはしないよ。むしろ毎日赤飯が出てくんス」
「大喜びじゃねぇか。でもあいつ、岐阜の方のアパートとか仕事はどうなってんだ」
「なんかね、だからいっぺん戻って、2週間くらいしたらまたこっち帰って来るって言ってたよ。あっそうそう。じゃじゃーん。コレ買ってもらったんだー」
そう言ってスポーツ用の小さなショルダーバッグからスマホを出し、見せつけてくる。おお最新の型じゃん羨ましいなぁ、って何の話だよ。なぜコイツは最新スマホを見せびらかしてくるんだ。
「実はこのアプリでね、……ほらウチに居るでしょ。いつでもママの居場所が分かるんだぁ。だから逃げようとしたって地獄の果てまで追いかけてやるぜヘッヘッヘェ」
「豹変してんじゃねぇよ、ったく。頼むから早くキャラを安定させてくれ」
いきなり獲物を狙う獣の様な表情になったレイを小突くとヤツは一転、白い犬歯をニョキっとして、ものすごい満面の笑みに変わった。朝の陽射しを反射するような、まるで屈託のない笑顔。
「ありがと、パパさん。ママを連れて帰ってくれて」
「……あいつはあいつの意思で帰ってきたんだ。俺は伍香と岐阜旅行行ってただけだよ」
息を吐いて立ち上がり、飲み干したコーヒーの缶をくずカゴに落として走り出そうとした時、進行方向から見知った顔が近づいて来た。薄ピンクのスポーツタイツに白い半袖シャツという出で立ちの……えっと、名前なんだっけ。看護師なのは分かるしなんか普通っぽい名前だった気がするけど。やべぇ脳が老化してんな。
「ハァ、ハァ。……おはようございます野月さん。と、あの、こちらのお嬢さんは?」
「お金持ちのお孫さんです。あそこ、山の麓のお屋敷の」
「あー、洲本さんの。お祖母様が時々ウチの病院にいらっしゃいますよ。そういえば昨日、すごく嬉しそうにお子様が戻ってきたっていうお話をされてましたけど……」
やっぱ嬉しいんだな。ちょっとホッとしたぜ。で、この人の名前は……と。ウムム、どうしても思い出せねぇ。
「あっ、時間ヤバイ。そんじゃえんもたけなわ、パパさんアタイ先に行くんで。あらよっとホイッ」
土煙を上げて、レイは俺の視界から瞬時に消えた。
「え?! 今、ヒュッって消えましたけど。今までそこにいましたよね?」
「あいつは多分、前世が忍者かアサシンとかなんでしょうね。敵に回さない方がいいですよ」
で、この人の名前は……? 俺が首を捻りつつモゴモゴしていると、向こうから前のめりで話し出した。
「あの、毅さんにちょっと相談したいことがあるんですけど!」
「ほァ……? あぁはい、どうぞ」
……てか、この人の名前なんだっけぇぇぇ?! ド忘れしちまったけど、別に名前を呼ぶこともないかとその思考をいったん脇へ置いておき、俺たちはもう一度さっきのベンチに座る。妙に距離を空けて座るあたり、警戒されているのかそういうタイプの人なのか。まぁどうでもいいや。
「相談って、何ですか」
「あ、はい……。弘さんって私のこと、何かお話したりとか……してませんか? お家で。すごく人当たりの良い方だと思うんですけど、どうにもあの人の気持ちが掴めなくて」
あー、そういうことね。この人はやっぱ兄貴を好いてくれてんだな。だけどオクテな兄貴に痺れを切らした感じか。綺麗なのに変人を相手にしちゃって可哀想だぜ。
「兄貴は恋ってか、女性にあんまし興味ないですよ。大学時代から浮いた話の一つも聞いたことありません。まぁそもそも俺が家を出てからは、ラインのやり取りくらいしかしてませんでしたけど」
「ええっ、じゃあもしかして、あの……、あちらの……」
「性別がどうのこうのよりも多分、人間自体に興味がないんだと思います。俺からすれば、何を楽しみに生きてるか全く分かんない奴なんですよ。そうだなぁ、好きなものはレーシングと野球の観戦、昔売れてたアイドルグループの追っかけ、それにラーメン……は病気してから食べてないな。今、何が楽しくて生きてんだろ」
「アワワ。なんという酷い評価。弟さんなのに厳し過ぎません?」
あまりの酷評に瞳を滲ませる誰かさん。仕方なく腕組みして良い所を考えるが、特に俺からの採点は変わらない。いわゆる不思議ちゃん枠だからな。でもこの人が兄貴を地獄のような深淵から救い出してくれるかもしれない。
「よしっ。今から兄貴に突撃しましょう」
「ハァ?!」
俺はサッサと腰を上げ、野月家へ向かいズンズン進む。「あの、ちょっとぉ」とか言いながら健気について来る……なんとかさんもきっとオクテだ。どっちからもアクションをかけられなければ、恋なんて発現も進展もしようがない。善意の第三者がとりなしてやらなきゃ。頑張れ、俺。
「た、毅さん! 弘さんに何を言う気ですか?!」
「簡単なこと。気持ちってのはね、言葉にしなきゃ相手に伝わらんのです。あなたが兄貴を好いてるのは一目瞭然なんだ。兄貴だってあなたみたいな綺麗な人に告白されたら足もなんもかんも治っていきなり走り出しますよ。だから言うのはあなたです」
「綺麗だなんてそんな、……じゃなくて告白? するんですか今?」
俺が立ち止まれば彼女も足を止める。振り返り、至極真剣な顔をしたつもりで諭すように語りかけてやる。
「今しなきゃ、いつするんです? ホラ昔に流行った言葉があるでしょ。いつするんですかっ」
目の前で瞳を潤ませたままの……なんちゃらさんは恥ずかしそうに両手を前に出し、いつかの流行語を口にした。
「今……、でしょ……ぅぅ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
野月家の玄関脇に身を潜め、小さな影が出て行くのを待つ。
「いってきまーす!」
元気な声を発しながら、ランドセルを背負った伍香は走って行った。これで余計なちょっかいをかけてくる者はいなくなったわけだ。俺は手振りで彼女に「行こう」と伝える。気取られてはならない。突然兄貴の部屋に突入し、驚いた瞬間、一気に畳みかける。そうでもしないと兄貴の分厚い感情の膜を破ることはできないはず。
侵入者ふたりは縁側に周り、姿勢を低くしたまま靴を脱いで上がり、這うように進もうとする。
「……靴揃えなくていいですから。早よぅついてきて」
「す、すいません。両親に厳しく躾けられたもので」
なるほど箱入り娘か。それならある意味、兄貴に合うんじゃないかな。
「あの角を曲がってすぐの部屋です。いいですかもう一度言いますよ。ここで言えなきゃもう一生言えないと思ってください」
「は、はいっ。ここはメギドの丘なんですね」
「? ちょっと何言ってっか分かんないけど、まぁ多分そうです」
名前なんだっけなぁ。疑問を頭に引っ掛けたまま俺は先陣きって足音立てぬよう歩き、兄貴の部屋の前まで遥々やって来た。一度息を吐き切って、スゥッと吸い込み、呼吸を止めて引き戸をバァンと弾くように開ける。
「兄貴!」
「わぁッ、ビックリした。なんだよ毅……と木野さん?」
「弘さん! 私、あなたのことが好きです!!」
突然の告白に虚を突かれた兄貴の大きく開いた口が塞がらない。胡座をかいた姿勢のまま凍りついてしまったかのようにピクリとも動かなくなる。それはどんな感情からくる態度だ? 拒絶か? 困惑か? はたまた歓喜か?
「──あ、え、えぇとその、木野さんが、僕を……?」
「はい。色んなお話をしてくださいましたよね。弟さんの娘さんを預かって大切に育ててる弘さんのこと、凄いなって思いました。自分が大変な病気に罹ったのに、弟さんのこととか、その娘さんのことばっかり気にしてる弘さん格好良いなって思ってたんです。だから私、弘さんの傍に居たいなって思うようになりました。弘さんとなら、幸せな家庭を築けるんじゃないかって。だから、あの……、私と、……えと……」
兄貴は僅かに表情を崩す。そしてなぜか俺をチラッと見て、ひとつ頷いた。
「すいません木野さん。コイツが無茶なことさせてしまって。訴えていいですよ」
「だから母さんも兄貴も、なんで俺を訴えさせようとすんだ」
「訴えるなんて、とんでもない。毅さんは私の気持ちをちゃんと分かってくれて、こうして仲人までつとめてくださった恩人です」
「まだ仲人じゃなくて仲介ですけどね。で、どうすんだ兄貴。こんな綺麗な人が好きって言ってくれてるんだぞ」
「……うん。毅、すまないが立たせてくれないか」
兄貴の右腕を掴み、上に引き上げてやると本人は両足にありったけの力を込めて立ち上がった。俺より若干背の高い兄貴が少しだけ腰を落とし、木野さんに目線を合わせる。ぬわぁ~、ドキドキしてきた。
「僕はあんまり人と深く関わったことがありません」
「そ、そう、ですか……」
「だから、失礼な態度を取ることもあるだろうし、嫌な思いをさせるかもしれません」
「あ、いえ、そんな……」
「ダメなところは、ちゃんとダメって言って欲しいです。嫌なことを我慢するのもやめてください」
「はい、……え?」
「こんなつまらない男でよければ、お相手させていただけますか」
言葉の意味を理解したのか、木野さんは思わず両手で自分の口を塞ぐ。きゃぁ信じられないとでもいう表情だ。その目はウルウル潤み、照明の光を盛大に弾き返す。
「兄貴、それはオッケーってことでいいな? 撤回しないよな?」
「そういうことだ。こんな熱烈に……わっ」
無言で抱きついた木野さんに押されて、兄貴がよろめく。
「きゃッ、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
「大丈夫です。おかげさまで結構、足に力が入るようになったんですよ。早く動けるようになって木野さんをお誘いしないとね」
「私も、引き続きリハビリお手伝いします。一緒に頑張りましょう!」
こうして兄貴は、長らく続いたバチェラーとしての生涯を閉じ……じゃなくて、新しい人生を始めることとなった。彼女との……そうそう、木野さんだ。ちゃんと名前覚えたぜ。
俺の前で恥ずかしげもなく抱きしめ合うふたりの姿を視界に捉えながら思う。いいかげん俺も自分の人生を前に進めないとな。進んだ先がどんなだって、受け入れて生きていかなくちゃならないんだ。
そこに、悠希は居てくれるんだろうか。