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現代嗜惣 徘徊編


用語はまだ確定していない。私も間違え、混乱する。いずれにせよ、いつまでも曖昧な部分が残るだろう。使い分けたからといって、はっきり区別したことにはならない。パラディグムは軋むだろう。意味はすぐに取り消せれたり、取り替えられたりするだろう。言述は不完全なものとなるだろう。

ロラン・バルト『テキストの快楽』

スピノザの『エチカ』でも、神の証明は論理ではなく、描写にとどまった。
精錬の歩み、証明を受け入れられるような主体に変容する長い思索としての描写である。
極めて定義しがたく、定義した途端にすり抜けていけいくもの、あるいは、定義されてはならないものを対象として言い述べるとき、僕は主題をめぐり周辺を歩くことしかできない。
今、この主題とは嗜惣という概念のことである。

嗜惣をめぐる大いなる徘徊の一歩を踏み出すことになる。

今日の徘徊経路

今日の徘徊経路をメモしておく。
以下「……である」とよく云うが曖昧な定義づけにとどまる。

嗜惣:嗜好内容の束である。
嗜好内容:かつて嗜好評価された事柄である。(嗜好内容も嗜好対象になりうる)
嗜好:観念の観念である。美味しい意識である。メタレベルの観念である。ニジ的な観念である。

例えば、僕がワインについての観念(ワインがどのような色や味であるべきか、どのような時に飲むと良いか、などの先入観や経験に基づいた認識)を持っているとして、これが一つ目のレベルの観念である。
次に、僕がそのワインについての観念を見つめ直し、それがどのように形成されたのか、その観念が僕の行動や意識にどのように影響を及ぼしているのか、その観念が正確なのかどうか等を考えるとき、僕は「観念の観念」を持っていると言える。
このような「観念の観念」を持つことは、自分の思考や観念が自己と環境からどのように形成されてきたのかを理解する上で重要だと歩く。また、自己反省や自己認識の手段ともなり、個々の思考や行動の背後にある動機や理由を理解する助けとなると歩いた。

嗜惣は、それぞれ異なる角度から私たちの内面的な世界を描き出すものであり、その形成過程はモザイクや集合体を作るようなものと歩く。それぞれの要素が絡み合って全体を形成し、全体がまた各要素を形成するという相互作用の中で、私たちの思想や嗜惣は動的に形成され、変化し、発展していく。

僕が徘徊した範囲では、嗜惣は個々の経験や好み、期待などの感情的な反応が組み合わさった結果生じる、全体としての感覚や認識を指す。つまり、それぞれの経験や感情が個々の部分となり、これらが複雑に絡み合い、全体として嗜惣を形成する、といった考え方が可能である。
嗜惣が個々の感情的な反応や経験から形成されると考えると、それぞれの部分が全体に対して自律的に働き、他の部分との関係性を通じて全体を構成する、という考え方が可能である。この考え方は、「全体は部分の和以上のものである」というシステム思考とも関連しているように歩ける。

例えば、美味しいワインを楽しむときには、ワインの風味や香り、飲む環境や気分、一緒に飲む人たちとの関係性など、さまざまな部分が複雑に絡み合って全体的な楽しみを生み出している。
これらの部分の一つ一つが自律的に働き、他の部分と相互に作用しながら全体としての嗜惣または嗜像を形成している。 

また嗜惣は個々の経験や感情が相互に作用し合い、全体としての感覚や認識を形成するプロセスを指す言葉と言い歩ける。


その意味で、嗜惣は私達の認識や感情、経験の多様性と複雑性を捉えるための有効な概念で歩。
それらをどのように全体として統合するかについての考察を可能にし、私達の好みや価値観がどのように形成され、全体的な認識や感じ方がどのようにして生まれるのかを理解するためのフレームワークを提供してくれるような気がしたところで本日の徘徊を終わる。


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