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ナヲ次郎ロングインタビュー2(自作自演です)
2回目は小学校編前半です。
幼稚園と小1で転校するまでのその1はこちら。
1.新宿区は都会ではなかった
インタビュアー:さて新宿区の西側某所に引っ越してきてどんな
感じでしたか?
ナヲ次郎:比較的いい住宅街に分類される地域でしたが、
最初はボロアパートでした。誰が見つけたんだ!(笑)
ただ23区内とはいえ空き地もそこそこ残って
いましたし、練馬区はもちろん、あの世田谷区も
農地がたくさん残ってましたよ。
近くに商店街はあるし、そば屋や寿司屋から店屋物を
取れるのが嬉しかった。外食大好き人間。
イ:お店の数が半端ないってことですね。
マ:そうですね。というかそれまでが少なすぎた。
それと家の前は酒屋で、大酒飲みの親父にウィスキーの
ポケット瓶を買いにいかされました。
当時の酒屋って今のコンビニのようなもんで、
酒類・ジュース・パン・菓子のほかに、インスタント
ラーメン、など食料品や、ちり紙(テッシュは無い)などの
日用品や荒物まで幅広く置いてありました。
だから1980年前後にコンビニが登場しても、特に何てこと
なかったですね。
セブンイレブンの鮭おにぎりは美味いなと思ったくらい(笑)
2.なぜか乞食のイラストを描き続ける担任
イ:転校した小学校はどうでしたか?
ナ:1~3年生の担任は男の先生でしたが、いつも赤い顔をして
お酒が大好きだったようです。文集を作るのが好きで
(義務かも)、よくガリ版を切っていました。
イ:すみません、ガリ版ってなんですか?
ナ:あっ、知らないか。半透明の専用用紙に鉄筆でガリガリと
書くのです。それにインクを乗せると、下の紙に印刷される
訳です。孔版印刷というのかな。プリントゴッコの原理です。
ボールペン原紙やコピー機はまだ普及していなかったのでね。
イ:プリントゴッコは聞いたことはあります。ボールペン原紙は
知りません。
ナ:なにー! 君は物を知らんなあ(笑)
まあいいや。で先生はイラストも書くのですが、それがなぜか
いつも服に接ぎを当てた乞食の絵なのです。もしかしたら
乞食って今使っちゃいけない言葉のかもしれないけど、
ホームレスとはちょっと違います。必要に応じて物乞いも
するし、昔はどの町にもいたんじゃないのかな。
今だったら間違いなく問題視されるイラストを、なぜ書き
続けたのかは分かりません。戦中・戦後の体験で何か感じる
ものがあったのかもしれないし。PTAで問題にならなかった
のは、親も戦争体験者だったからかも。
体罰だって相応の理由があれば、一部の親を除いて許容されて
いた時代ですからね。悪いのは子ども。先生にお任せ。
3.給食の脱脂粉乳はゲロ不味だった
イ:都会ならではのカルチャーショックはありましたか?
ナ:当時は新宿区は都会じゃないですよ。高層ビルはまだ
ひとつもなかったし。
それに2年生までは給食の牛乳が脱脂粉乳だったのには閉口
しました。田舎より遅れている。
あれって戦後のアメリカからの物資供給の名残だったん
ですよね。超絶不味い飲みもので拷問でした。
鼻つまんで飲んだもん。オエッってなっちゃうの。
どうも大型船で運ばれる際に、野積みのまま熱帯地域を
通るので変質してしまったらしいです。
家畜以下の扱いだよなあ。
ただ当時はどこの学校でもそうだった訳ではなく、新宿区が
例外だったようですね。同世代人にも話が通じないので(笑)
4.勉強はやる気なし
イ:勉強はどうでしたか?
ナ:嫌いでした、というか面倒くさかったので、ほとんど宿題を
やった記憶がありません。家は休養する場所で、帰宅してまで
勉強する理由が分かりませんでした。なので成績は普通。
それに好きだったから得意という教科もありませんでしたね。
父は戦時中に上級学校に進学するのを諦めて旧制中学中退
でしたが、小学校の通信簿は全甲(オール5)なのを見て
驚きましたね。地頭はよかったのでしょう。
歳の離れた叔父は東大行ったし。
イ:いやそれはスゴいですよ。
ナ:そうなんでしょうね。
それだけに私に期待をかけたのに、全然応えられません
でした。
というか初めから応える気がなかったですけど(笑)
そもそもエリート教育をしない時点でダメですよね。
最低限、本はたくさん家に揃えとけと。
実際父はそのころまでは、子供の目にはオールマイティ
でしたよ。絵も字も上手だし、工作もスポーツできる。
算数の図形問題や国語も得意。
ただ化学や物理系、音楽はそうでもなかった気が。
たぶん私の興味の方向とは逆だったのでしょう。
ただね、人は自分が習った以上のことは教えられないですよ。
地頭の良さ以前に、高校の科目になったらムリです。だって
父は習ってないんだもん。やればできることと、今知って
いることは別でしょ。ポテンシャルで評価してもらうのは
難しいのです。
5.50m走は超遅かった
イ:では運動の方は?
ナ:これもダメでしたねえ。体が小さかったこともあったのかも
知れませんが。
長嶋茂雄さん全盛時代に、野球をやっていなかったことも
マイナスかな。
なんせ6年生のときの50m走のタイムは11秒台でしたから(笑)
イ:それは遅すぎます!
ナ:そう思うよね。なぜだったんだろう?
ただまあ水泳は人並みには泳げたし、跳び箱もけっこう
飛べたりで、部分的には普通でした。ちゃんとやれば、
それなりだったのかも。
ちなみに足の遅さは中学に入ってから劇的に改善します。
スポーツ関係は習っていませんでしたが、小学校の校庭が
アスファルト?だった関係で、冬になると土曜日の午後に
なると、後楽園スケート場(当時)からローラースケートの
指導に来てくれたのです。
たしか2年生から6年生まで習ったおかげで、それなりに
滑れるようになりました。しかもローラーができれば
アイススケートも滑れるようになるんですよね。
さすがにその場でクルクル回転するのはムリだけど。
6.一生の友達と巡り合った
イ:友達との付き合いは?
ナ:同級生はみんな近所ですから、なんやかんやでよく一緒に
遊びましたねえ。といってもフリーダム気質の私は、
けっこう面倒をかけた気がします。
中でもやはり小学校1年生の冬に転校してきたT君とは、
毎日のように遊びました。彼は元々地元の人ですが、
お父さんの仕事の関係で一時アメリカに行っていたのです。
彼のご両親やおじいちゃん・おばあちゃんに感謝しても
しきれないほどお世話になりました。
今自分があるのは半分はT君一家のお陰です。
彼の一家がスゴいのは、ビンボーな家の私を一切差別しないで
扱ってくれたことです。芸術など文化的な生活を知ったのも
彼の一家の影響ですね。
イ:いい友達とめぐりあいましたね。
ナ:そうですね。
人生のかなりの部分は出会いで決まると思います。
そもそも彼が私のどこが気に入ったのか
分かりませんが、彼も当時はちょっと変わっていたからな。
変わりもの同士(笑)
7.知っていた大学なんて10校もない
イ:塾や習い事には行ってましたか?
ナ:前述のT君のお母様が自宅で英語塾を開いていたので、
小学校4年生から中学卒業まで週1回通っていました。
小学生のうちは全然やる気がなかったのですが、
中学に入ってからなぜか急に成績が伸びたのです。
たしか中学では英語のテストが一番だったこともあるんじゃ
なかったかな。
彼の家には何から何まで世話になってます。
その他は数学塾とソロバン塾にちょっと行っただけ。
数学塾は分数の計算ばっかりてつまんなかったなあ。
ソロバン塾もすぐ飽きた。
あ、当時流行っていた四谷大塚にも行ってみたけど、
1回で辞めました。
貴重な休息日である日曜日を一日潰されるのはたまった
もんじゃありませんから(笑)
しかも教室がぎゅうぎゅう詰めで、酸欠になると思った。
そもそも当時は大学名もろくすっぽ知らなかったですね。
東大、早大、明大、日大に武蔵野音大くらいかな。
東大は叔父が行ったから、早大は赤塚不二夫のマンガで
替え歌をやっていたから、武蔵野音大は地元にあったから
てなもんです。
同級生が中学受験で慶應を受けると聞いた時は、京王だと
思っていたくらいだもの。
へー、京王電鉄に中学があるのかーなんて。
すこし鉄分が入っていましたから。
イ:いやー、さすがにそれは世間を知らなすぎですねー。
ナ:否定はできないけど、まだそんなにお受験が一般的じゃない
時代だったんですよ。
増えてきたのは昭和50年代以降じゃないすかねー。
ただ中学進学の段になって、同級生の女子はかなり私立中学へ
行ってしまいました。一緒に区立じゃないのかよと
裏切られた気分になりました(笑)
イ:沢山の女子が受験してたことを知らなかったのですか?
ナ:ぜーんぜん。
彼女らの受験の動機って、区立中学が荒れているのを、
親が嫌ったからなんですよ。いわゆる問題生徒が少なからず
いただけじゃなくて、とんでもなく厳しい音楽の先生(男性)
がいたんです。
その噂は進学前から入ってきていて、卒業間近はイヤだった
ですね。
ちなみに男子で私立中学に進学したのは、クラスで
ひとりだけ。
8.音楽の授業はモヤモヤした
イ:そういえば前回、小学校の音楽の先生も厳しいと話して
いましたね。
ナ:そうです。当時すでにかなり年配の女性の先生でした。
おそらく戦前にそれなりの音楽学校を出られたんじゃ
ないすかねー。
毎週水曜日の朝礼は音楽朝礼をやっていたのです。
たぶんそんなことをしていた区立小学校はまれでしょう。
楽譜の読み方とかは教わったのかもしれないけど、
全然記憶が無い。ただ楽しいからという理由で歌うとか
リコーダーを吹くのは苦手でした。
例えば合奏でアコーディオンが弾ける子とかいるじゃ
ないすか。
なんで弾けるんだよお前は、という感じでケッとか思って
いました。もちろんピアノが弾けるからなんですけど、
前回の幼稚園の木琴問題と同じです。
当時はサイレント楽器なんて無いので、ピアノを所有する習う
ことはハードルが高かったのです。
そういえば家にピアノのみならずマリンバまであった同級生も
いたなあ。とはいえ彼は音楽の道へは進んでないですけどね。
イ:うーん、なんとなく僻みっぽい気がしますが…
ナ:たしかに僻みっぽいけど、楽器はちゃんと習わないと手も足も
出ないでしょう? 習うに当たっては自宅に練習環境を
整えられるか?という問題も出てきます。
しかし例えば水泳ならスイミングセンターで習わなくても、
速さとか距離とかを競わなければ泳げるのとは違います。
素質がある子なら専門的に習わなくてもスゴい。
芸術方面でいえば、図画工作なら素質がある子なら習わ
なくても上手いし、また稚拙でも面白いものは作れます。
この手の話は岡本太郎氏も言っていたと思いますよ。
しかし楽器は違いますよね。ピアノにしろヴァイオリン
にしろ、正式に習わないと音楽になりません。
いわゆる芸事に近いのです。
そんな違いなんて気にしなきゃいいだけですが、なんか
きったねーなーと思っていました。(まさに小並感)
イ:家庭環境の違いは小学生にはどうにもならないって
ことですね。
ナ:そうそう。
それと高学年になって鼓笛隊を作ることになり、
男子はトランペットをやりたい人を募集したことが
あったんです。
私もなぜか手を挙げて、練習用マウスピースを購入しました。
最初はドとソ(だったかな?)を吹きわける練習でしたが、
私はそれをやる意味や意義が全然分かりませんでした。
今でもそうですが、とりあえず真似しろという教わり方は
苦手です。形だけ真似したってクソの役にも立たない。
管楽器を知らなければ、キーやバルブの組合せで音程をすべて
変えられると思っちゃうんですよね。ところが吹き方を変えて
倍音を作らなければ、すべての音程をカバーできないことを
最初に説明すべきと思うんですよ。
あ、子供に音階と倍音の説明は難しいか(笑)
なのですぐに脱落しました。
結果的に残ったのは、ピアノを習っていた連中。
自分がそれでも食らいつかない根性無しだったのは
認めますが、結果的に音楽の素養があった子ばかりが
目をかけられる初等教育はダメだと思います。
40年以上経った今でもモヤモヤする(笑)
中学に進学してからは、ぼちぼち復讐戦が始まるのですが
それはいずれまた。
9.駄菓子屋や縁日は行きまくった
イ:音楽の話になると力説しますね(笑)
ところで子どもらしく駄菓子屋にはよく行きましたか?
ナ:毎日のように行きましたね。あちこちにあったから。
ふわせん(オレンジ色の薄い煎餅)に梅ジャムを付ける
やつなんか、2円じゃなかったかな。
10円の価値がすごくあった時代です。
チクロという人工甘味料が全盛の時期で、砂糖のように
甘ったるくなくてよかったですよ。
ちなみにチクロは発がん性があるとかで、その後禁止に
なったけど、濡れ衣だったようですね。
あと縁日も盛んな時代でした。5のつく日とか7のつく日に
駅前や神社・仏閣に露天が並ぶのです。お好み焼きが30円
くらいだったな。
雑誌の付録だけを売ってる店もあった。
雑学好きだったので買うの楽しみだったな。
ちゃんと小学○年生とか学研の科学と学習も買ってたけどね。
そんないい時代は、あの田中角栄の台頭と共に終わりを
告げました。
土地も一挙に値上がりして、練馬区で戸建の建売住宅が
600万円くらいだったのが、1500万円くらいになりました。
屋台のお好み焼きも200円くらいになったなあ。
便乗値上げにもほどがありますよね。
小学校編後半に続きます。
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