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ナヲ次郎ロングインタビュー1(自作自演です)

インタビューアー:自作自演ですがよろしくお願いします。
         まずご自分はどんな人だと思っていますか?

ナヲ次郎:いきなりなんですか?(笑)
     平均以下のオッサンだと思っています。
     生まれ育ちも、容姿も社会的地位も経済力のすべてに
     おいてですね。

イ:そうですか? そうは見えないですが。

ナ:なら上手く繕っているってことですね(笑)
  まあバレてる人にはバレてると思いますが。
  でも悲観はしていないですねえ。子供の頃から
  悟っていましたから。中途半端に恵まれていると
  いろんな悩みが出てくると思うので。

1.幼少期から冷めていた

イ:ずいぶん子供の頃から達観していたんですねえ。

ナ:なぜか4歳くらいの時に、泣いたってどうにもなんないよ、
  と自覚した瞬間があった
んです。これは今でもはっきりと
  覚えています。

イ:それはすごい。甘え下手だったのですかね?

ナ:そうかもしれません。他人は他人で自分は自分と
  思っていた気がします。なので泣いてまで自分を通す
  ことはあまり無かった。
  生まれは豊島区ですが、1歳のときに引っ越して、
  6歳までは多摩地区の田舎みたいな所に住んでいました。
  近所の子供も少なかったし、一人っ子だったこともあって、
  人に揉まれなかったせいかも。人見知りで引っ込み思案で、
  そのくせお調子者でした。

イ:田舎と一人っ子のせい?

ナ:そう。一人っ子って何でも自分で解決しなきゃいけないんです。
  長男・長女もそうかもしれないけど。
  一人で路線バスに乗って幼稚園に行かせるとか
  今だったら鬼だな(笑) さすがにバス停までは遠いので
  母親が自転車で送り迎えはしてくれましたけどね。
  幼稚園のサイトを見ると、今はスクールバスがあるようです。

2.最初のカルチャーショック

イ:保育園じゃなくて幼稚園なのですね?

ナ:当時は就学前に1年だけ幼稚園に通うのが一般的でした。
  なぜかカトリックの幼稚園に行かされ、毎週月曜日には
  礼拝堂で「天にまします~」を唱えていました。
  先生は修道女の服装で洗礼名なので、えらい所に来たな~
  という感じ。

イ:カルチャーショックだった?

ナ:制服って面倒くさいし、通園するのがイヤでしたね。
  カトリックですが、一応日本の行事も行っていました。
  例えば七夕会がそうです。
  忘れられないのが、その七夕会でドナウ川のさざなみの
  演奏をしたのですけど、木琴(本格的なやつ)を
  演奏できる子が何人もいたのです。
  そんなこといつ習ったんだろう?と不思議でしょうが
  ありませんでした。私は誰でもできるカスタネット担当。

イ:幼児音楽教室でも行ってたんですかね?

ナ:ヤマハの幼児教室みたいのはまだなかったと思います。
  今思えばたぶんピアノを習っていた子達ではないかと。
  東京の片田舎とはいえ、元々街道の宿場町でしたから、
  教育に熱心な地元の名士の子がたくさんいたはず。
  うちは父が勤めていた会社の新工場ができた関係で
  引っ越してきた他所者で、裕福でもなかったので、
  あんな幼稚園に通わすなんてお高くとまっているとか、
  近所から陰口を叩かれたこともあったみたい。

イ:そういう時代だったんですねえ。

ナ:その木琴の件がずっと引っかかって、世の中って
  学校や幼稚園で習うことがすべてではなく、そもそも
  家柄とか格差があることを悟りました(笑)
  小学校に上がってからも、音楽の先生は厳しくて
  イヤでしたねえ。要は音楽の素養がない子は相手に
  しない態度に思えました
。てか昔の先生ってえこひいきが
  ひどいので、たぶんそう。
  いいトシになってから楽器を習い始めたのも、その時の
  ショックが残っていたから
だと思います。
  一種の復習戦でもあるのは否めない(笑)

3.東京でも天の川は見えた

イ:そのほかの思い出は?

ナ:その頃はまだ高度成長期だったので、大気汚染が激しかった
  はずですが、天の川がはっきり見えました。

イ:それは素晴らしいですね。

ナ:全体的に夜空が暗かったからじゃないですかねー。
  たしか井の頭公園あたりや石神井公園あたりでも、当時は
  見えたそうですよ。

4.米軍機が墜落したし隕石?が庭先に落ちた

ナ:あと米軍機が自宅から2kmくらいの畑に墜落しました。
  墜落現場には母に連れられて行って、バラバラになった
  機体を見ました。
  当時は警備もユルくて、私は米兵に何か話しかけられた
  そうですが、英語じゃ分かるはずないって。

イ:当時はけっこうあちこちで米軍機が墜落したみたいですね。

ナ:ベトナム戦争のさなかですからね。
  高度はある程度あったけど、家の真上に飛びまくっている
  ので騒音はあるし、テレビの画像は乱れました。
  小学校は騒音防止のため二重窓で、なんとエアコンまで
  あったのです。
  半世紀以上前から田舎の小学校にエアコンですよ!
  沖縄の人達の不安ってよく分かります。

イ:あと隕石が庭に落ちたとか?

ナ:庭先というとなんですが、当時は工場の敷地の片隅に社宅が
  ありました。工場から社宅までは100m位あって原っぱでした。
  ある夜、縁側からたまたま外を見ていたら、5mくらい先に
  空からオレンジ色をした光が地面に達したのを見た
んです。
  こわごわとその場所に行ってみると、特に変わったことは
  なく、小さな石がありました。

イ:じゃあそれが隕石だった?

ナ:そうかな?と一瞬思ったですが、音がしなかったし、地面に
  めり込んだ感じじゃなかった。だからたぶん違う。
  ガキのくせになぜか冷静だったな(笑)
  もしかしたら近くで花火をやっていたのかなと周囲を
  見渡しても誰もいません。障害物が無いので見れば
  分かるのです。それにクリスマスの頃だったから
  花火なんか誰もやってる訳ないのです。

イ:不思議ですね。勘違いじゃないんですか?

ナ:親も全然信じてくれませんね。たまにその話をすると、
  「まだそんなこと言ってる」と相手にしてもらえません。
  でも見たことは動かせない!(きっぱり)

イ:そりゃそうですよ。子供ってそんなことよく言いますから。

ナ:今考えると可能性としてはプラズマですね。
  300mくらい離れた所に高圧線が通っていたんです。
  そこと何かしらの電磁波が交差して、一瞬プラズマが
  発生したのではないかと。
  あすかあきおの世界だな。こりゃ。

イ:開けた場所って何か不思議なことが起きる気がしますね。

ナ:そうですそうです。家の前の原っぱでは、小さな竜巻が
  あっという間に大きくなったのを見たこともあるし、
  夕立でどうやらうちのアンテナに落雷したらしいことも
  ありました。その時は一人で留守番していたのですが、
  小さな木の窓から雨水が浸水してくるし、人生で一番
  怖い体験でした。雨が上がってから外に出てみたら、
  アンテナのエレメントの1本が地面に刺さっていたので、
  たぶん直撃したんでしょうね。

イ:辺鄙なところにも関わらす、親戚がよく遊びに来た
  そうですね。

ナ:親戚もみんな若くて元気だったですからね。
  どこまで行っても原っぱという環境が気に入ったようです。
  原っぱって、ある場所ではススキが生えていたり、
  シロツメグサやヨモギが生えていたりします。
  またある場所には直径2mくらい丸く芝が生えているところが
  あって、その変化が面白いんですよね。
  公園のようにきれいに整備されてるんじゃあ面白くない。

  それにどこで鬼ごっこやボール遊びしても怒られない
  環境なんて都会じゃ無いでしょ?
  ある従兄は手作りの手裏剣を試していたなあ(笑)

  なので未だに親戚が集まると、あの時は楽しかったと
  言われるもん。自分の家じゃないけど(笑)
  ひとつ下の従弟は、家の前まで来る小型トラックに
  日用品を積んだ移動販売車でお菓子を買うのが面白かった
  らしいです。まあ移動販売車って一種の押し売り的な
  ところもありますね(笑)
  そういえばゴム紐とか歯ブラシを買ってくれという
  本物の押し売りも来たな。マンガやコントと同じ。

イ:そんなフリーダムな体験を経て、小学校1年の夏休みに
  引っ越すのですよね。

ナ:フリーダム!まあそうかな。
  こんな経験は、もう二度と無いでしょうからね。
  引越しは私に都会の教育を受けさせたいという理由の
  ようですが、労働争議が激しい時代と土地柄だったので、
  父も少し嫌気がさしていたのかもしれません。
  そんなこともあって、具体的な場所は伏せています。

  夏休みに小学校に挨拶に行って、担任の先生(女性)に
  「せっかく慣れてきたのに残念ね~」と言われた
  記憶があります。

  引越し後に区画整理事業が始まって、今では各種郊外
  店舗が増えて当時の面影はありません。
  工場も社宅も無くなり、今は某大手家電量販店とスーパーに
  なっています。今でも数年に一度は訪れますが、変わらない
  のは奥多摩の山並と富士山の姿だけですねえ。

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続きは気が向いた時に。

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ナヲ次郎
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