archive②『カレン・カーペンター 栄光と悲劇の物語』 1995年刊行、編集エピソード (2020,Facebook, Book Cover Challenge +)
これまで様々な仕事をしてきたなかでも、本書の編集は強く印象に残っているものの一つである。
カーペンターズを知ったのは1972年、小学校6年生のときに聴いた「Top of the World」だった。たちまちカレンの声に引き込まれ、翌年発売された5thアルバム「NOW&THEN」は、中学1年生の夏に毎日のように聴いていた。オフィシャル・ファン・クラブにも入会し、翌1974年には抽選に当たって武道館ライヴにも参戦することができた。
その後カレンは、私が大学3年生の1983年2月4日、拒食症から壮絶な死を遂げた。痩せ衰えた衝撃的な写真が、写真週刊誌に掲載された。
そして出版社に勤務していた1991年、雑誌編集部から書籍編集部に異動した先で、カーペンターズの書籍企画の英文ドラフトを読むこととなった。その20枚のコピーに書かれていたのは、兄リチャードが主治医からカレンの深刻な病状について聞くシーンだった。
リチャードの証言によって初めて明かされる過酷な真実が綴られた書籍。これは絶対に邦訳版編集を担当したい!と思い速攻で企画書を提出したのだが、なかなか結論が出ないまま退職に至る。
転職した出版社では2年めに海外翻訳書籍の編集担当となったので、いったん忘れようとしていた本書の版権についてエージェントに問合せてみるとまだあいている! 先に新聞社の出版部門がオファーを出していたのだが、そこはアドバンスが折り合わずに辞退した!
版権を仮押さえして企画書を会議に出したのだが、そこの管理職たちは本書の衝撃と当時のカーペンターズ再評価の波を理解することなく、「今さら昔の歌手をなぜ」と言われて却下される。
がっくり忸怩たる思いでいると、海外翻訳チームリーダーのMさんから「青野君がそこまでやりたいなら絶対やろうよ。企画書の切り口変えて来月もう1回出そう!」とドラマのような一言を頂く。おかげ様で翌月承認、素晴らしい上司には今も感謝しかない。
翌1995年年頭、順調に進んでいた校了前の出張校正室に、管理職から承認されたはずの表紙写真NGの電話が入った。原書の表紙写真であり、ファンには有名で、カレンがリチャードをバックにあたかも「さようなら」と言っているように手を振り、本書の内容をすべて語り尽くしているような絶妙な写真を「ピンが甘いから変えろ」と言う。どうもさらに上の人間からの命令のようだ。
私はこれを無視してそのまま刊行し、その罰で書籍編集だけではなく出版事業そのものからも飛ばされる。私は異動先の他部署から、本書の翌月重版、その後本書とタイアップした複数の人気ドキュメンタリー番組や、「青春の輝き(I Need To Be In Love)」が主題歌に起用されたドラマ「未成年」などの効果による、緊急重版を繰り返す大ブレイクを見届けたのでした。
まさにファンにとっての「名誉職」を、思うとおり全うできたものの、この会社ではその後出版編集業務に戻ることはなかった。想いが強過ぎる性格は会社員には不向きではあることはよくわかったが、治したくも矯正されたくもないので、そういう人間は独立するしかないこともよくわかった出来事だった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?