NewJeansが作り出すリアリティとその行方 #6
4章 第4世代K-POPガールズグループが作り出すリアリティ(中編)
前記事では、STAYCとLE SSERAFIMを取り上げ、アイドルという人間のリアリティについて概観した。
ノンフィクションに近い部分を見せることは、ビハインドを一つのコンテンツとして成立させたK-POP産業の流れを汲みつつも、一歩先を行ったリアリティの作り方であった。
↓前記事(長い)
NewJeansのリアリティを特定するには、まだ参照点が足りないだろう。
この記事では、他の参照点として、ITZYとIVEが作り出すリアリティについて考える。
両グループは圧倒的な実力とカリスマ性を武器に、フィクションのリアリティを極限まで高めている。
だれもが憧れる存在だ。筆者(三十路男性)も例に漏れず憧れる。スーパーかっこいい。
特筆すべきは、そのフィクションが自己愛を発端としているという点だ。
BLAKPINK以降、市民権を得たガールクラッシュというコンセプトは、自己愛というテーマで一つの結実を見た。
その様相を丁寧に眺めていきたい。
4.2 自己愛から始まる物語
ITZY
筆者はITZYのデビュー当時、彼女らが作り出すクリエイティブに対して、ガールクラッシュという既存の概念でしか感想を述べることができなかった。が、流れの中で再度時間軸に沿って作品を改めて眺めると、憧れの的としての表象を超えた何かがそこにあることがわかる。
先述の記事でもとりあげたが、その特徴はやはり自己愛を中心に据えたゆるぎないコンセプトであろう。
とりわけ、デビュー曲を含めた初期の三部作(DALLA DALLA, ICY, WANNABE)は、自己愛を極めた歌詞や映像表現が特徴的である。
自己愛やナルシシズムというと多少なりともネガティブなイメージが想起される。
自分だけを愛するということが利己主義的な思想であるというような感覚が呼び起こされるのだろう。
しかし、自己愛と利己主義は同一のものだろうか。
愛とは感情であり、主義は思想であるから、比較するのもおかしいような気もするが、混同しやすい概念であることは間違いない。
エーリッヒ・フロムは自己愛について以下のように述べた。
自己愛は利己主義とは正反対であると言い切っている。
そして、次のようにも述べている。
彼に言わせてみれば、自己愛のある人は、愛する技術を持った存在なのだ。
ITZYは清々しいまでの自己愛を初期三部作において確立し、4作目のNot Shyからはその愛は他者へと向き始めた。
自己愛の強さを残しつつも、他者への関心が滲み始めているようだ。
それにしても、どうせ私のものになるからという台詞はなかなか歌えないだろう。
この行き過ぎともいえる歌詞に難なく説得力を持たせてしまうのがITZYの凄みだ。
筆者のような限界異常独身男性がこんなことを言った日には、即ネット民の餌食となりミームの海に沈められること請け合いだ。
その後リリースされたLOCOでは、愛の重心がより他者の方へと傾いている。
これは、見方を変えればITZYの活動自体が自己愛から始まった愛についての物語のようでもある。
愛する能力を持った存在が、自己愛を発端に他者を愛し、世界を肯定してく物語を現在進行形で私たちは目撃しているのである。
IVE
IVEはデビュー当初から圧倒的な注目を集めていた。
メンバーのうち二人が後述のIZ*ONE出身であること、デビュー前に公開されたモノクロのビジュアルイメージのクオリティがあまりに高かったことなど、話題になる要素が盛りだくさんであった。
ここで、IVEが公式に発表しているコンセプトを引用することから分析を始めたい。
デビュー当初から、すでに"持っている"存在であることが強調されている。
その、完成されたアイドル像は一点の曇りもない。というか輝きすぎてもはや見えない。
K-POPの代名詞としても遜色ないほどの完成度は作品がたとえフィクションであるとしても圧倒的な説得力を醸す。
その徹底的なコンセプトはAfter LikenのMVにも色濃く表現されていた。
画角の中に撮影機材が映るカットが多く出てくることからもわかるように、MVを撮る様子を撮るというメタ作品である。
私たちはアイドルとしてフィクションをつくっている。
そして、それは見る人を確実にポジティブな方向へと導く。
と、宣言しているかのような主張と自信が画面の中からあふれ出ている。
もちろん、PVを見た筆者もポジティブな感情を掻き立てられ、お祭りのような気分にもなった。
そう、IVEのカムバックは、他のどのグループにも増してお祭りのような高揚感が伴うのだ。花火大会のような光と音の応酬がMVからも放たれる。
まわりの人までポジティブにさせてしまうその"自信"はITZYと同様に自己愛から生じるポジティブな心情だ。
ライターの市岡光子氏が「Kitsch」のレビューを通してIVEが示す自己愛について丁寧に分析されているので一部引用したい。
IVEの自己愛とは、K-POPアイドルとして、今を生きる人として、見る人たちへポジティブな影響を与える存在としての自己に対する愛ではないか。
作品を通して人々にポジティブな影響を与えてきたK-POPの先人たちの偉業を引き継ぎ、そして、完璧なフィクションを提供する。
このK-POPの権化のような振る舞いはあまりにメインストリームであるが故に、これまでのグループに成しえなかった新たな偉業である。
フィクションがもたらすリアリティ
フィクションであることはわかっているのに、ITZYやIVEの作品からはリアリティを感じ取ってしまう。なぜだろうか。
小野直紀氏は、SF的なものやドキュメンタリーと比較することでフィクションが持つリアリティの説明を試みている。
なるほど、フィクションは疑似体験として自らの"身体"を通過することでリアリティを獲得するのだ。
そのフィクションの確からしさ、完成度が高ければ高いほど、そのリアリティがゆるぎないものになるというのは納得できる。
ITZYやIVEも自己愛というテーマから始まったフィクションを洗練させることでリアリティを作り上げているのだ。
では、上記の引用にあるように、SF的なるものにはリアリティは宿らないのだろうか。
それは、否であると提案したい。
次節で論じるaespaは、身体性を根本から解体し、SF的なコンセプトを携えてK-POPの世界へ現れた。
肉体とアバター、現実とバーチャル、二面性や自我の多様化を通して、リアリティのあり方を拡張している。
aespaが体現するこの世界線を評して、"リアリティは無い"という解釈ではなく、あえて"リアリティを拡張する"という表現を用いたい。
次記事では、aespaの作り出す世界線を、バーチャルリアリティやメタバースといった概念との関係性に着目しながら紐解いていきたい。
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