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テーブルの上で踊るK-POPアイドル
先月末に鮮烈なデビューを飾ったiznaは、サバイバル番組「I-LAND2」から生まれたグループである。
正直なところ、自分はI-LAND2を観ていなかったし、SNSで彼女たちを追っていたわけでもない。だから、その周辺で巻き起こっていた熱狂についてはあまり肌感覚がない。とはいえ、公開から3週間ほどの現時点(2024年12月15日)でMVの再生回数がすでに5613万回を超えている事実を目にすれば、その人気ぶりが瞭然だろう。
オーディション番組の是非やファンたちの熱狂についてはひとまず置いておくとして、彼女たちのデビュー曲『IZNA』のMV内で、ひとつ興味を惹かれたシーンがある。そこで筆をとってみたいと思う。
テーブルの上で踊る
MVの中で、日本人メンバーであるココが、長く波打つような白いテーブルの上を歩く場面がある。
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ココはテーブルの上を踏みしめながら、ラップパートを流れるように披露する。
That's wonda woman,
so no wonda who they wanna be
Wonda who that girl izna, izna, it's me
I'm the ONE 난 날아다녀 Like 23
더 높이, 착지한 내 Spot, 여긴 꼭대기
「私こそが誰もがなりたい存在で、ここは頂点だ」と高らかに歌い上げるようなフロー。
厳しい練習生時代やオーディション番組を勝ち抜いてきた"強者"たちによる、自信に満ちたボースティングである。
純粋にカッコいいし、胸にぐっとくるシーンだ。
だが、単純に「カッコいい」で片づけてよいのだろうか。なぜ、いまアイドルにはボースティングが必要なのか。「私こそが誰もがなりたい存在である」という、ファンが自然発生的に抱くべき感情を先回りして宣言することに、どんな必然性があるのだろうか。
タブラ・ラサ
テーブルの語源を辿ると、ラテン語の“tabula”に行き着く。
タブラ・ラサ(tabula rasa)は直訳で「白い板」や「書かれていない書板」を意味し、ジョン・ロックが「生まれたばかりの人間の心は白紙(タブラ・ラサ)である」という経験論の基礎概念を示したことで有名な言葉だ。その後は建築や芸術分野で比喩的に用いられ、「既存の合意や規範を一旦白紙に戻す」というイメージを伴うようになっていく。
ココが白いテーブルを踏むとき、そこには何が表象されているのだろう。
自分自身を白紙とみなして、新たな経験で塗り重ねる覚悟なのか。それとも、K-POP産業自体を白紙に戻し、そこから新たな衝撃をもたらすという宣言なのか。
ここで、iznaをプロデュースしたTeddyの別プロジェクトにも目を向けてみよう。
iznaのデビューから遡ること約2か月半、Teddyが代表を務めるTHE BLACK LABELから初めてガールズグループがデビューした。5人組ガールズグループのMEOVVは、グループ名と(ほぼ)同名の曲『Meow』でシーンに登場している。
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MEOVVは、一目見ればそのオーラに圧倒される存在感を放つグループだ。
当然、BLACKPINKの後継者的な評価や期待も背負っていくだろう。注目すべきは『Meow』の歌詞。サビ前の一節で、こう歌われる。
홀린 듯이 dancin' on the table, table
テーブルの上で踊るというシチュエーションが、歌詞としてあからさまに提示されているのだ。MV中でも、メンバーのスインがテーブルの上で踊るシーンが映し出される。
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ほぼ同時期にデビューした2つのグループが、いずれもテーブル上でのパフォーマンスを印象的に用いている。
これは、単に「カッコいいシーン」として消費するには惜しい、一つの時代性を示唆しているように思えてならない。
日常からの逸脱
タブラ・ラサという机上の概念から離れ、もう少し表層的な意味でテーブルを捉えてみる。
もともとテーブルは、食事や交渉、共有の場として「日常性」や「社会的秩序」を象徴してきた。その上に登ることは規範からの逸脱であり、通常ならマナー違反である。
こうした逸脱は、過去のミュージカル映画で頻繁に使われてきた手法だ。日常的な空間を「歌と踊り」で非日常的な舞台へと変える場面は、直接的な経験がなくともイメージできるだろう。『オリバー!』や『Newsies』など、日常から祝祭へと転換する「瞬間」を楽しむのがミュージカル映画の醍醐味だった。
ところが、K-POPのMVには、そもそも「日常」など存在しない。最初から光り輝くセットやCG、鮮やかな照明が広がり、観客は非日常的な空間へ一瞬で放り込まれる。このため、テーブルの上で踊ることは、日常を超える「転換点」としての説明を省き、いきなり「異化された舞台装置」として立ち上がる。
短尺で高密度な表現を求められるMVにおいて、日常から非日常への一連の演出を挟む余地はない。テーブル上でのパフォーマンスは、すでに「アイコン」として成立し、即時に「特別なメッセージ」を伝えるツールへと抽象化されている。
コンテクスト省略とアイコン化
正直なところ、私は上記に挙げた二つの映画を見たことがない。この記事を書くにあたって、事例を調べてみて、見つけた二つをただ載せた。ところが、なんとなく、そのシーンのイメージを見たことがある気がしている。
視聴者は、ミュージカル的な文脈やパフォーマンス表現の蓄積された歴史を、実体験の有無に関わらず内面化している。たとえ該当の映画を観ていなくとも、「テーブルの上で踊ることが意味するもの」をなんとなく理解できるのだ。
こうしてコンテクストの長い導入が省略され、結果だけが提示される。K-POPのMVは3~4分という制約の中で最大限のインパクトを追求するメディアであり、必然的にショットの数も限られる。
それゆえショット数の密度が極端に高いという特長もあるが、その議論は他にしている人もいそうなので脇に置いておこう。
ここで、言いたいことを一文でまとめると、「テーブル上で踊ることは、説明不要の記号へと昇華している」ということだ。
テーブルと消費文化
テーブルは日常性だけでなく、商品を並べる台、食材を提供する棚としての意味もある。そこには「消費」というニュアンスが濃厚に漂う。
『IZNA』の件のシーンでは、テーブル上のカトラリーがココの衣装に引き寄せられる演出がある。可処分時間や可処分消費が熾烈な争奪戦を繰り広げるコンテンツ産業において、テーブル上パフォーマンスは「自分たちを消費せよ」というメッセージを帯びているかもしれない。
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『Meow』の曲中では以下のようなフレーズがある。
Wons and yens and dollars
Comma comma comma
Bring ‘em
つまり「とにかく金を持ってこい」という、アイドルらしからぬ直球な要求だ。Hiphop的価値観なら珍しくないかもしれないが、アイドルという文脈でこれを言わせる面白さは際立つ。最初に聞いたときには思わず笑ってしまった。
パフォーマー自身が「売り物」であることを逆手にとり、消費社会で流通する商品のような自分たちを、むしろ肯定するかのような表現。それを理解して楽しむ観客との共犯関係が、そこにはある。
こうしたメタ的な潮流は、NewJeansの『Ditto』や『OMG』で極まったと言える。
ファンとアイドルの共依存的関係性やアイドルのイマジナリー性を躊躇なく描き出すことに成功したこれらの作品以降、アイドルとファンダムはカルト化せずとも自律的な共生を築けるようになった。
この流れの先に、iznaやMEOVVの「テーブル上パフォーマンス」が存在しているのは間違いない。
テーブルモチーフの変遷
3年前にリリースされたLOONA『Not Friends』では、長いテーブルが権威やヒエラルキーを示す舞台装置として機能した。メンバーのヒジンがテーブル上に立ち、端に座る権力者風の人物に銃弾を浴びせるあのシーンは、「権威に対する反逆」や「成り上がり」を鮮やかに象徴していた。
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だが、いまやテーブル上パフォーマンスは、過去のような物語性を必ずしも伴わない。反逆や成り上がりといった明確なナラティブよりも、より抽象的で即物的なアイコンとして「消費」や「地位」を表現するケースが増えている。
グローバルに拡大するK-POP市場では、文化的・歴史的背景を観客が共有し、瞬時に符号化されたメッセージを受け取ることが求められる。制作者側は前段階を省き、端的なアイコンで意思を伝達する。テーブル上パフォーマンスは、商品棚であり、権威の象徴であり、舞台的非日常を一瞬で喚起する多面体的記号となった。
まとめ
K-POP MVにおけるテーブル上パフォーマンスは、もはや「日常から非日常への移行」というミュージカル的演出を説明せずとも機能するアイコンであり、そこには消費構造や権力関係、自己商品化を匂わせるメッセージが忍び込んでいる。
視聴者はこうした自己言及的表現を理解し、あえて矛盾を抱えたまま享受する。
アイドルたちが、こうした商業性やメタ性にどの程度自覚的なのかは分からない。だが、極端なまでの開き直りは一種のカッコよさを生み、ファンはその中に複雑な快楽を見出してしまう。
おそらく、これがK-POPファンダムの醍醐味の一端なのだろう。
最終的に、テーブルを舞台装置として成り立たせているのは、他ならぬファンたちの視線だ。消費される偶像がそこに立つのも、権威を壊す象徴が上で踊るのも、グローバルなファンダムがそのコードを理解し、受け入れるからこそ成立する。テーブルの上で踊るアイドルと、それを凝視する私たちの関係は、これからどのように揺れ動いていくのだろうか。