「イイやつ」が割を食った瞬間 小山田圭吾 炎上の「嘘」
正直面食らった。僕が小沢健二、フリッパーズ・ギター、そしてコーネリアスに触れたこの年に、あの2021年に巻き起こった小山田圭吾のイジメ問題の本が出るということに。
5月頃、コーネリアスの『Sensuous』の完成度に打ちひしがれた僕はその他のディスコグラフィを確認するために愚かしくもWikipediaへとアクセスした。しかしながらコーネリアス=小山田圭吾の項目には2021年の忌まわしいイジメ問題についての説明があまりにも多く、うんざりしながらも読み進めていくうちにふと、この問題に対して中原一歩氏が本を出すということを知った。正直なことを言えば2021年のまさに小山田氏が「炎上」していた時は心底どうでもよかった。勿論インタビュー記事はクソッタレだと思ったし、そんな事を言うモラルのない人なんだな、という認識のままその記憶は風化していた。しかしながらその後に吹き荒れた様々な炎上やコーネリアスの音楽に触れた僕の価値観や心は、どうにもその本が気になって仕方なかった。「その後」を知らずにいた僕は、コーネリアスを素直に聴くためにはきっとこの本を避けることは出来ない。少なからずあった小山田圭吾という存在に対するモヤモヤに、一旦のピリオドを打てることを信じて。
小山田圭吾は「イイヤツ」だった
いやいや、そんなわけが無いだろう。なんせイジメをしていて、あるいはしていなかったとしてもイジメについて嬉々として語る様なクズなのだから。驚いたことにこの本の著者、中原一歩氏の出発点は上記のような「鬼畜野郎について書いてやろう」というゴシップ根性から始まっている。それだけではなく、本を通して小山田氏に肩入れすることは少ない。事務所や小山田氏がインタビュー記事についての修正、謝罪を2021年になるまで行ってこなかった所などもしっかり批判的な目線で書かれている。しかしながら中原氏は「ネットでの小山田圭吾」と「近しい人物から語られる小山田圭吾」のあまりの乖離具合から、この問題に対するリサーチを開始する。本の内容はぜひ手に取って読んで欲しいので省くが、こと問題にされていたいじめのうち、実際に行っていたのは「ダンボールに閉じ込めて黒板消しの粉を振りかけた」ことのみであり、それに関しても、その当事者だった人とは高校時代を経て友人となった、と語られており、また当時を知る人の証言においても、いじめをしていた、という噂すら聞かなかったとの事だった。(勿論上記の行動は十分いじめに該当するし、小山田氏本人から反省の弁も述べられており、またその当事者との関係性は取材に応じてくれた同級生も肯定している)
しかし結局の所「そもそもなんでそんなことを言ったのか」という疑念への確かな答えは終盤までは掴めていなかった。しかし終盤に小山田氏の友人が語った言葉はその疑念を打ち砕くどころか小山田圭吾にまとわりついていたモヤモヤさえも払い除けてしまった。
本書では小山田氏が五輪チームに参加するまでも書かれている。二転三転する開会式チームに所属する友人が小山田氏に白羽の矢を立て、そして小山田氏はその友人のために、興味のなかった五輪チームに名を連ねた。そして問題のインタビューが大炎上。大量に寄せられるバッシング、誹謗中傷、殺害予告に対しても、それでも自分が今やめてしまえば残りのメンバーに対して申し訳ない。と最終的に辞任するようにマネージャーが提案するまで、本人の中には「辞任して楽になる」という思考はあれどそれを行動に移す選択肢は無かった。心身をすり減らしてでも、他の開会式に関わっているメンバーを立てる選択を選び続けていた。正直精神が強靭とかいうレベルじゃない。僕が同じような立場だとして、その選択を取ろうとは思えない。
それだけではなく、問題のインタビューを行い、そして事実をごちゃ混ぜに、センセーショナルに書き立て炎上の一端を担ったロッキン・オン・ジャパンの山崎洋一郎氏に対し、不誠実な対応を指して「それはないよ」と思っていたと話すも、やはり山崎氏に対しても「憎んでいない」と話す。
「イイやつ」なのだろう。
インタビューで求められていることを感じ取り、話す、なぜならそれが今求められている事だから。本人からしてみれば至極当然でやるべき事をしたんだろう。
結果的にそれは利用され、捻じ曲げられ、全てが悪い方向へと噛み合い、小山田氏に消えない十字架を背負わせた。それはきっと当人がしたこと、それに対して目を背け、再三の修正、謝罪を逃し続けてきた報いだとしても重すぎる。だがきっと小山田氏は投げ出さないのだろう。「イイやつ」だから。
イイやつが割を食う、そして
直接の言及は避けるが、某漫画家の自殺が起こり、それはネットを大きな怒りの渦に巻き込んだ。例に漏れず様々なクリエイター、ネットユーザーが「某テレビ局の実写化はお断りする」なんて文言を掲げていく様子を1ヶ月以上見てきた。しかしながら僕の「意見」を述べさせてもらえば空虚な怒りが満ちているな、というふうにしか感じなかった。被害者の報いとして「加害者」を恐ろしい勢いで断罪しようとする。しかしそこに被害者を悼み、あるいは支援をしていこうという動きは見られない。なんだかみんな、コイツ、あるいはコイツらを叩けと扇動されているようで、あるいは叩くポーズをすれば「みんな」から支持をされるからしている。そんな感じがして不気味でならなかった。(勿論叩かれる相応の理由はある、が、そこに対する違和感である)
あんなに怒っていた人たちは、あの後まで動向を見ていたのかな。
今現在進行形で「アサシンクリード シャドウズ」が燃えて、シリーズをよく知らない方も怒りをメラメラと燃やしている。これはもっと分かりやすく、あなたは一体何に怒っているの?と聞いたら帰ってくるのは大抵「まとめ動画」である。もっと一次ソース無いの?と聞いてようやく提示されたインタビューも、原語版を見てみたら当該箇所のニュアンスが違い、叩かれているのは翻訳のせいでは?なんてことも。(もちろん「シャドウズ」はかなり問題があるが、批判者、及び批判意見にもかなりの問題がある、という事だ)
本書を読みながら上記の騒動を思い出し、「ああ、何も変わっていないんだな」と諦念に近い感情を抱いた。僕たちはファクトチェックという概念を知っても、コミュニティーノートによるファクトチェックが始まっても、メディアさえもが感情を優先し、扇動され、被害者もファクトチェックもどこかにぶん投げて、第二第三の小山田氏を生み出し続けている。「イイやつ」が割を食って、一年間まるで死んだも同然のような状態にされた意味は一体どこにあったのだろう。この本は、それを食い止められるのだろうか。
追記:本書における疑念
本書にて記述されている「孤立無援のブログ」の管理人である電八郎氏は本書の筆者である中原一歩氏を訴訟している、ということは本を読む上で頭に入れておきたい。
8月14日現在でも中原氏からのレスポンスは行われていないため、こと「孤立無援のブログ」の内容についての記述は信ぴょう性に欠ける内容であると言わざるを得ない。ここは非常に残念な所であるが、電八郎氏の名誉が不当に毀損されていたのであれば本書は本末転倒となってしまう。
本書を語る上でこの点について触れないのはフェアでは無いため、ここに記しておく。