あれから30年 阪神淡路大震災の経験
2025年1月17日は、阪神淡路大震災から30年。
昨年購読を始めた神戸新聞には、連日震災の記事が載っています。
当時私は高校3年生の18歳。
幸いにして直接被災したわけでも身内が亡くなったわけでも無いのですが、人生でも有数の衝撃的な出来事でした。
子供にも当時はどうだったか聞かれることもあり、30年の節目として自分はどうだったのかを振り返り、記しておこうかと思います。
震災当日のこと
すぐに地震とは思わなかった
当時住んでいた実家は、神戸市の中でも西の山側、須磨ニュータウンと呼ばれる山の方でした。
かつてオリックスの本拠地があったグリーンスタジアム神戸(ほっともっとフィールド神戸)のある辺りです。
1月17日の5時46分。
早朝だったので寝ていたのですが、なにやらぐるんぐるんと、大きく揺さぶらます。
寝ぼけ半分で、とりあえず布団にもぐり「いったいいつまで続くのか?」と思ってました。
それくらい長く感じたのですが、実際は15秒ほど。
団地に住んでいましたが、建物ごと倒れるんじゃないかと。
はじめは地震とは思わず「核戦争でも起きたのか?」と考えるくらい、何が起きたのかがわからなかったです。
周りの大人たちからは「神戸には地震がない」と言われ続けていたので、まさかという感じでした。
あまりの出来事に、前日まで熱が出ていましたが瞬時に治りました。
親戚と連絡が取れない
なにもわかない状況でしたので、何かしら情報を得ようと電話を試みます。
が、電気が止まっていたので、前年に購入していたコードレス電話が使えません。
当たり前ですが、コードレス電話には電源が必要です。というか、その時に初めて電気が必要だと気づきました。
コードレス電話では使えないけど、ひょっとしたら電源のいらない過去に使っていた黒電話だとつながるんじゃない?となり、つなぎなおすと、「つながった!黒電話はスゴイ!」と素直に感動しました。
今でしたら震災後の経験の知識として知ってますが、その時はほとんど被災や防災に関しての知識がありません。
電話がつながり、いくつか親せきや友人に電話をかけます。
父の姉にあたる叔母が神戸市灘区の文化住宅に住んでいたのですが、電話をしてもつながりません。
祖母にもつながりません。
山の向こうの空が赤い
家の中は幸いにして、食器が数枚割れたくらいでした。
電気ガス水道も止まり、テレビも映らないので状況がわかりません。
はじめは「東海地震でも起きたのかな?」と話をしてた記憶があります。
水も出ないので、とりあえず飲み物を確保しようと小銭をもって近くの自動販売機へに買いに行きました。
そして家に戻ってくると、母が「なんか山の向こうの空が赤っぽくない?新長田とかの方よね?火事が起きてるのかも」と言ってます。
実家から南の方を向くと、六甲山脈に西端の山々が見えます。
その向こう側は、須磨や長田の町です。
私は「いくらなんでもそれはないやろ。火事で空が赤くなるもんなん?」と返しました。
電気が元に戻り状況を知る
そうこうしているうちに、電気が元に戻りました。
地域の中でも比較的早かった方ではないかと思います。
さっそくテレビをつけると、神戸の街にとんでもない事が起きています。
母が言っていた空が赤く見えたのは、本当に大火災が原因でした。
火の恐ろしさを見せつけられた印象です。
父はスクーターで叔母の住む灘区へ
父はテレビを見て青ざめていました。
父と仲の良い姉は、神戸市灘区に住んでます。
テレビからは、神戸の市街地の状況が映っていました。
母と私は、「とりあえずすぐにお義姉さんのところへ行って様子見てきた方がいいんやない!?」と父に言います。
父「いや、こんな状況では車で行かれへんやろ。」
母「スクーターで行けばええやん」
父「迎えに行ったって二人乗りでけへんやろ」
母「アホ!こんな状況で警察がとがめるかいな!」
とやり取りしてたことを思い出します。
父にしてみれば、ひょっとしたら姉が・・・、といった最悪な状況や色んなことが頭を巡りつつも色々と考えていたのでしょう。
そこへ母や息子の私からやいのやいの言われ、今となっては気の毒なことをしたなと思います。
母に促され、すぐに意を決して須磨区から灘区へ向かって行きました。
その後、夕方に叔母をスクーターの後ろに乗せ父は帰宅します。
叔母は憔悴していました。
叔母の住んでいた文化住宅の1階は倒壊。
2階に住んでいた叔母は助かり、台所の小さな窓から脱出したそうです。
祖母宅に向けて歩く
私は実際のところ、本当にどのようになっているのか、この目で確かめたくなりました。
また、祖母にも近くに住む親せきにも連絡が取れないので、状況を見に行くことと合わせ、幼馴染を連れ立って5キロほど歩いて山を下っていきました。
野次馬根性と言われればそうですし、テレビの映像だけではにわかに信じがたいといった感じです。
私たちが住む須磨ニュータウンは何事もないのですが、山を下るにつれて古い建物が壊れたりしています。
祖母の住むあたりにくると、倒壊している家も目立ってきます。
そして、一番記憶に残っているのがガスの臭い。
いたるところでガス管が外れているのか、ガスの臭いがします。
「これは本当にとんでもないことが起きてヤバいな」と少々怖くなってきました。
視覚だけでなく嗅覚で体感したことで、リアルさが一気に増しました。
傾きはしつつも祖母の住むアパートは無事でした。
が、祖母宅をのぞいても、誰もいません。
祖母の近くに住む親せきの家にも誰もいません。
周りの様子は静かです。
親せきや祖母は避難をしたと考え、また、これ以上町に出るとかえって危険になるかもと思い、引き返すこととしました。
当日のことはそれ以降覚えていませんが、余震が続き始めは怖がっていましたが、何日か経つと慣れてました。
高校卒業
高校生活のあっけない終わり
のちに学校から連絡があり、3年生はその日から休みとなりました。
登校する日は、卒業式を含めて3日くらいだったような気がします。
受験を控えているのもあり、そのような対応になったのでしょう。
思い出深かった高校生活は、あっけない終わりとなりました。
私たちの学年は受験でそれはそれで大変な状況となったのですが、一つ下の学年は修学旅行が中止(当時は2年生の3学期に信州へのスキーでした)になり気の毒だなとも思いました。
担任からクラス全員の状況確認電話を頼まれる
ある日、受験の書類をもらいにか何かの用事で学校へ行ったとき、担任の先生からクラスの名簿とテレホンカードを渡され
「近くの公衆電話から、全員の状況を確認してきてくれ」
と頼まれました。
携帯もスマホも、メールもLINEなどのツールもない時代。
いそいそと学校の外にある公衆電話へ向かい、40人の家庭に電話をした記憶が残ってます。
思い返すと、女子の同級生の家を含め電話がよくできたなと思うのと、担任の先生も受験生を持ち、また、震災で混乱している状況でそれこそ猫の手を借りるほど忙しかったのだなと思います。
受験
受験を控えているということで、母がわざわざ自分の兄が住む大阪府門真市へ私だけ1~2週間ほど預ける手配をしていました。
父に車に乗せてもらい、いつものルートである阪神高速が使えないので、山手側から大回りで連れて行ってもらった記憶があります。
と言っても、叔父の家では受験勉強に集中せずに震災のテレビ報道ばっかりを見てました。
親の期待に応えられず、申し訳ない・・・。
この時は、「まぁ、専門学校もあるしな」くらいでしたが、よりによって受験予定の専門学校が神戸三宮のど真ん中。
近くのビルはつぶれたり倒壊しています。
なんとか専門学校自体が無事で、本当に良かったです。
もしここで、専門学校のビルが潰れていたら私の人生も大きく変わってたでしょう。
卒業式~入学まで
そんなこんなで卒業式を迎え、結構楽しく好きだった高校生活が終わりました。
自衛隊に入隊する友人を、早朝みんなで見送ったり、アルバイトをしたりして入学まで過ごしていました。
アルバイトは家電の配達や引っ越しでしたが、瓦礫のなか多くの家電を運んだ記憶があります。
一度瓦礫につまづいて冷蔵庫を落として壊してしまい、青ざめました。今思い出しても、申し訳ないです。
避難所・倒壊した文化住宅・お風呂
叔母や祖母は、避難所で暮らしていました。
なんでも、避難所にいないと罹災証明をもらえないやら補償がもらえないやら、仮設住宅に住めないからといった理由だったような…。
本当のことはわかりませんが、高校を卒業したばかりの自分には、「何とも融通の利かないのが社会なんだな」と思った記憶があります。
週末には父と避難所へ叔母や祖母の様子を見に行ってました。
また、倒壊した叔母の文化住宅へ行き、がれきを踏み分け窓から部屋に入り、持ち出せるものを持ち出したり。
が、地震泥棒に金目の物を盗まれたりして叔母がひどく落胆している光景を思い出します。
「こんな状況なのにひどいことをする奴がいるんだな」と強く思い、世の中の厳しさを感じました。
当時、表立って報道はされなかったことかなと思います。
実家は早くからライフラインが復旧していたため、震災後は父の被災した親友家族の方がお風呂にちょこちょこと入りに来ていました。
お風呂に入られた後は、とても喜んでおられたことを思い出します。
同じ神戸市で、住んでいる場所は10キロと離れていないのに、震源地からの距離は同じくらいなのに(なんならうちの方が近い)、こんなにも違うんだなと。
自分たちはただただ、運が良かっただけだなと思います。
振り返って思うこと
東京中心の物言いの報道と地下鉄サリン事件で完全に世間の関心が移る
地震からしばらくは、連日震災の報道が続いていました。
今でも覚えているのは、「被災したのが東京でなくてよかった」といったニュアンスでの報道です。
なんともやるせない気持ちになったのと、結局は他人事なんだなと思うのと。
そのような意図で番組制作されたのではないのかもしれませんが、東京で番組が作られ、人口の相当数が首都圏に住んでいるのでそのような作りになったと今では理解はできますが・・・。
2月も過ぎ、3月20日にオウム真理教の地下鉄サリン事件が起きました。
ここで一気に、世間の関心が震災から地下鉄サリン事件に移ったことを覚えています。
神戸は終わった街なのか
2010(平成22)年には154万人いた神戸市は2023年には150万人を下回り、2025年1月の推計では149万人となっています。
福岡市に抜かれ川崎市に抜かれ、2010年に政令指定都市で5位だった人口も7位となりました。
当時の上位10市で人口を減らしているのは神戸市と京都市だけです。
明石市や西宮市などの近隣に流出していることは間違いありません。首都圏や大阪への流出もあるでしょう。
地震の復興費負担で思うように都市開発ができなかったこともあるかもしれません。
そのため十分な再開発ができず相対的に魅力が落ち、「終わった街」と言われることも目に付くようになりました。
実際に私自身も、神戸に住み神戸で働いていた時は感じませんでしたが、中小企業診断士として独立し、だんだんと大阪が仕事の主戦場(ホントは神戸の仕事もしたいのですが)になると、会社の数も圧倒的に違いますし、やはり神戸はスケールが小さく見えます。
東京へ行くとなおさらです。
住むにしても坂道も多く、平地に住みたいなとずっと子供のころ思ってました。
また隣の明石市の発展を見ると、「そりゃ人も増えるよね」とうらやましく思ってました。
自宅から電車で一駅二駅なので、東に行くより明石の駅前に行くことが圧倒的に増えてます。(東に行くと混雑するってのもありますが)
若い人が多く、お店も充実して活気があるように見えます。
昔の明石を知っているだけに、街が変わりゆくさまを体感しました。
神戸はようやくこれから
震災の復興関連負債は神戸市だけで1兆330億円あったのが、2021年には900億円弱となり、ここ数年は都市の再開発も進んでいます。
復興負担がどれだけあるか知りませんでしたが、数字を見るとなかなかの負担額ですよね。
高い市民税だなと思ってましたが、そりゃ高いわけです。
ですが返済のめどが立ち、中心地である三宮駅前も再開発できるようになりました。
水族館もリニューアルし、いくつかの市内の主要な駅前は順次再開発され、色々と動き出していることを感じます。
子供の支援も充実してきました。娘が中学に上がるタイミングで給食が始まり、本当に助かります。
神戸空港もはじめはお荷物と言われてましたが、ここ最近は過去最高を更新し続けてます。
神戸市公式noteを読むと、今まで知らなかったこと、市も頑張っていることが知れ市民として誇りに思うようになりました。
かなり遅れはとってますが、人口減少をいち早く経験している政令指定都市として、これまでの人口増加の発展にこだわらない、持続性を考えた街づくりを前向きにとらえるようになりました。
市長の方針は、持続性を一貫して感じます。
地震のあった1995年は、神戸を本拠地にしていたプロ野球のオリックスが優勝。1996年は連覇を果たし日本一。
地震から29年たった2024年は、サッカーのヴィッセル神戸がJ1連覇と天皇杯優勝。(ちなみにヴィッセル神戸は地震のあった1995年1月17日が創設後初練習)
震災30年を節目に、子供が成人するころにはもっと良い街になってることを願ってますし、何かしら貢献できればとも思います。