【祝アニメ化】サクナヒメ「ヤナト田植歌」の意味【解説&考察】
先日、ゲーム作品だった『天穂のサクナヒメ』TVアニメ版の放送が始まりました。筆者も農家育ちということもあって同作をプレイしましたが、稲作パートもアクション物としても満足度の高い名作だと感じました。
特に、メインテーマ「ヤナト田植歌【巫】~かみなぎ~」の楽曲としての出来がゲーム音楽とも思われないほど素晴らしく、エンディングロールでフルバージョンを聴いたときには思わず涙腺にぐっと来たものです。だいじな主題歌なのに「著作者不詳」と公式設定にしているのもなんとなく粋な計らいだなと思いました(笑)。
ゲーム制作者インタビューによれば、多く残されている田植え唄や民謡等から少しずつピックアップして作詞をおこなった元ネタありきの詞だそうですが、しかしサクナヒメの物語と多くの共通点を見出せます。
アニメ版がまだ始まったばかりですが、「田植唄」の場面がどのように描かれ、物語がどう展開していくか楽しみな気持ちをこめつつ、「ヤナト田植唄」聴いた時の感動を文章にまとめておきたいと思います。以下、フィクション作品ではありますが日本の神話や古典がどのように本曲でモチーフにされているか、本曲の歌詞とその意味から(注、カッコ書き太字は筆者による意訳。)読み解く取り留めのない考察です。
ヤナト田植唄・巫 ―かみなぎ―(天穂のサクナヒメ主題歌) (youtube.com)
対句・縁語・掛詞(かけことば)の巧みさ
掛詞とはすなわちダブルミーニングの比喩や連想の事で、たとえば冒頭の「ねつき」は「根づき・寝付き」、サビ部最後の「たから」は「宝・田から」のふたつの意味になっています。
対句や縁語は似た意味合いが対応する二つの語句を対比させるレトリックとして用いられるもので、たとえば一番のサビの「おいで」とその次の一節は「かえる=帰る」という相反関係の言葉になっており、また二番にある「芽」は「め=妻」であり、その次にくる一節「やや=赤ん坊」とセットの意味合いになる語句表現となります。
また、稲の姿を自分たち人間の暮らしや労働の場面に置き換えることで、日々のつましい生活のアイロニーやわびさびと対比させつつ、まさしく上手な大喜利のような「ユーモア」のなかに溶けこませており、巧みな修辞法に風流を感じながら、歌や舞を楽しんでいたという古代の民草の姿が浮き上がってきてくるようです。「稲の擬人化」ともいえそうなこれらの表現技法は、やはり古来から続く日本人の感性の本質なのでしょうか?(笑)
このように見ていくと、本作は過去の時代から受け継がれてきた民謡の本質を損なわず、和歌や古典の常識や決まり事にのっとった伝統的かつ正当性に基づいたつくりの歌詞になっているといって良いと思います。
歌に隠された民草の魂
曲構成としては民謡らしい1番2番とメロディの繰り返しですが、「〽植えよ根付けよ」という七文字のアタマの歌いだしと、五文字の「〽とこしえに」のワン・フレーズを末尾に置くことで、起句と結句を明確に想起させ、田植えによる稲作の開始にはじまりやがて国土豊穣にいたるという、「クニの発展を描く歌物語」としての起承転結の様式を成立させているといえます。
そして、いわゆる作業唄・労働歌を歌物語の前半パートとすると、サビ部は「言祝=コトホギ」による奉納歌としての前半部に歌われる農作業の成果について感謝を述べる後パート、という構成と理解する事ができ、また全体を通してみれば、主人公としてとある農民の男の一生を歌っていると思われる、一つのストーリーにもなっていることがわかります。
最後の大サビで、田の神よ感謝します、この歌と舞いを捧げさせていただきます、と言って続く御祈願のための祝詞(のりと)は次になります。
「〽たゆたえどいつか根を下ろし神も人も栄えよ永久に」
これに、歌いだしの一節「〽植えよ根付けよ」を続けることによって、神々に捧げるにふさわしい「五七五七七」の格式に昇華させることができると考えられます。「根付けよ」という命令形になっているのも、言葉に力が宿るという「コトダマ」に基づく考え方です(言祝ぐ=コトホグ)。「栄えよ(○○しなさい)」の声掛けや「神さんよ」という呼びかけ行為自体に神聖な強い力と思いが込められています。
【上の句】 たゆたえど いつか根おろし 神も人も
【下の句】 栄えよとこしえに 植えよ根付けよ
何故また出だしに戻る必要があるのか。それは一年のサイクルである稲作と、人々が子を産み、育て、やがて天にのぼるという人生のサイクルが同質のものであり、「生命の循環」は終わりがまた始まりにつながっているからです。
農業とは、一年の同じことの繰り返しであり、日頃の鬱屈な気持ちを晴らすために年に一度の祭りがある(ハレとケ)。その繰り返しのなかで死んでいきまた生まれるのが人間の条理であり、自然の世の姿である。この「サイクル」が無事平和に連綿と続いていくことこそが世の繁栄の願いだからなのです。物語の発端で語られる「ヤナト(人の世)が長い戦乱にさいなまれ、農業も衰退していた」という背景があってこその祈りともいえます。だから再び、「たとえ苦しくても、いつかはまた実を結ぶ。だから植え続けよう」という想いに回帰していきます。
人々が願いを込めて歌い、かつ田楽踊りの舞いを行うに際してその伴奏に用いられる鼓笛や鈴、鐘といったいわゆる「神道行事」などにも通じる楽器が本曲演奏でも使われており、古式ゆかしい伝統芸能を意識した作曲及び編曲が意図されているようです。
ゲーム内では「ヤナト田植歌」=稲作労働シーンのための歌としてはじめて登場しますが、エンディングムービー用で「ヤナト田植歌・巫(かみなぎ)」というサブタイトルがつけられているのは、歌自体が単なるアレンジや別バージョンというだけでなく、巫女や神職が神々にささげる儀式に昇華された曲として意識されていると考えてよいでしょう。
「貴種流離譚」~神話の王道とは
「天穂のサクナヒメ」の物語は『日本書紀』や『古事記』に出てくる日本神話のモチーフを随所に見て取ることができる作品になっています。父神タケリビと母神トヨハナの出会いによって生まれた子がサクナヒメとされていますが、これはやはり「スサノオとクシナダヒメ」の夫婦神の説話を元ネタとしていると読み取って良いでしょう。(この二柱の子孫である「オオクニヌシ」は地上に降り立ち、豊穣神また国土繁栄の神となります。)
日本最古の和歌、また恋愛歌として有名な「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」の一首は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が詠んだものと伝えらえています。姉アマテラスに天を追放され、苦難を乗り越えたすえに八岐大蛇(ヤマタノオロチ)討伐に成功し、荒廃していた出雲の地を平定し民を救う武神とたたえられたスサノオ。「八雲(煙がたなびいて、うっすらとかすみがかった野山や農村の景色をあらわす)」の立っている自然風景の美しさ、そして自分たちの住む国土のすばらしさを詠いあげ、そこに愛しい妻(=稲作の女神・クシナダヒメ)を迎えて一緒に末永く暮らしたいものだなあ、といった想いが込められています。
これは「国歌(クニウタ…国土の美しさを讃え、国家の末ながい繁栄の願いをこめた歌。)」の古い歌の形式にも通じるものです。貴族社会の中で5・7・5・7・7の「短歌・和歌」の形が洗練化されていく以前には、31文字より多く、長くなるスタイルの「長歌」や「旋頭歌」とよばれる、古い時代から歌い継がれ文書としてのこされる機会の少なかった農民たちの田楽唄あるいは色恋の歌が数多く存在したといいます。そういった大きな歌のジャンルのくくりとしてみると本作は「ヤマトウタ(倭歌)」とよばれる上代の古い時代(仏教が本格的に伝わる前)の民草に広まっていたものの一つととらえるのがふさわしいと考えられます。
また、こういったスサノオ説話のように、尊い生まれの者が苦難の旅を歩みまた帰ってくる(もしくは使命を果たす)という物語展開で、英雄として大成する類話のことを「貴種流離譚」と呼びます。同じく日本神話の「ヤマトタケル」や、「ヘラクレス」「オデュッセウス」「ギルガメッシュ王」などなど枚挙に暇のない、世界各国の神話や伝承に共通して残されている形式です。そう考えると、「ヤナト田植唄」に込められた繁栄祈願の意味というのは、
というサクナヒメ伝説のこともなぞらえていえるのではないでしょうか。
(※記事タイトル画像=ゲームソフト「天穂のサクナヒメ」ジャケット より引用)