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音楽の古臭たち、そして騒音5            music fluxos, and so on. 5

疾風怒濤の中間管理職 ヨゼフ・ハイドン

或る時、ラジオを聴きながら車を運転していたのだね。
弦の音が流れてきて思ったのですよ。

①カッケーなぁ。
②オケっぽいけどなんだか小編成だね。
③なんか響きがマイケル・ナイマン・バンドみたいだぞ。
④うちに帰ったら曲名を検索してみよう。

その時はそこまで。
当時ピーター・グリナウェイの映画を何本か見た後だったので
音楽担当のマイケル・ナイマンのCDを何度も聴き返していたのですよ。
ちなみにマイケル・ナイマン・バンドはこの方の作品を演奏するための
演奏家集団の名前であってROCKバンドな訳ではないのですよ。

帰宅してさっそく検索してみました。

⑤ハイドン作曲 交響曲45番“告別”
⑥ナイマンもそこそこ著名な作曲家ではあるが
⑦“交響曲の父”ハイドンをパチもん扱いはかなり失礼。
⑧ナイマンがハイドンの響きを借りていると聴くべき。
⑨とりあえず45番の演奏をいろいろ聴いてみよう。←イマココ

コープマン、カザルス、ピノック、マリナー、カザルス指揮と
音源をそろえてみたけど前の3者は響きが古楽っぽい。
カザルス盤は結構モダンな響き。
一番モダンに感じたのが

バレンボイム指揮 イギリス室内管弦楽団

でありました。

写真はLPで交響曲48番“マリア・テレジア”とのカップリングであります。
だからジャケの人物はマリア・テレジアさんでありましょう。
CDだと44番“悲しみ”もついてくるので少しおトク感があります。

さてハイドンの交響曲はその作曲された時期によって
ひとくくりにネーミングされるものがあるです。
パリ・セット、ザロモン・セット(もしくはロンドン・セット)とか。
交響曲45番は、“疾風怒濤(Strum und Drang)期”の作品といわれておるです。
ハイドンの疾風怒濤期は1769-1772頃といわれており
交響曲41~45番位がそれにあたるようであります。(諸説あるんだよ。)
特徴としては、短調の多用であるとか、対位法の使用など
前後の時代の作品とは異なる特徴を持っているのですよ。
そういう訳で48番“マリア・テレジア”は疾風怒濤はしていないのだね。

ドイツ文学のトレンドの中に“疾風怒濤(Strum und Drang)”てのがあるです。
これは、古典主義や啓蒙主義に対するアンチとして
「理性に対する感情の優先」を主張するものだそうだ。
これがのちの「ロマン主義」につながっていく云々とのことであります。
このきっかけになったのがクリンガーという人の
戯曲“疾風怒濤(Strum und Drang)”で1776年に発表された。
20世紀初頭にヴィゼヴァという音楽学者が主張した
「1772年にハイドンの“ロマン的危機”があった」てことから
“疾風怒濤(Strum und Drang)期”という設定が
ハイドンにもなされてしまった。
時系列的にも明らかに変だけど、
カッケーし、まっいっかー、ということで
今日に至ってしまっている。

So it goes.

さてその45番だけど、嬰ヘ短調なのですね。
冒頭、哀愁を感じられる旋律がやや足早な感じで立ち上がってくる。
室内オケなので楽器の数が多くない
だから音の動きが見えやすい。
この要素があってより哀愁がしみてくる。
そのあたりがknock outを食らった要素なのですね。
この感覚こそがモダニティだとか早とちりして。

そうそうネーミングについての逸話があるです。
“告別”という名前。
当時ハイドンさんはエステルハージ侯爵家の楽長を務めていたのですね。
で侯爵様は楽団員を引き連れて避暑に出かけた。
ヒラの楽団員は単身赴任になっちゃう。
1772年の避暑は特に長くなり楽団員たちはホームシックになっちゃった。
デキる中間管理職であるハイドンさんは
「曲の最後に向かって、楽団員が舞台カラ一人ずつ去っていく」
という曲構成を考えて侯爵様にみんなの気持ちをお伝えしようと考えた。
話の分かる侯爵様はその意図をくみ取り
翌日から楽団員たちは休暇を与えられおうちに帰ることができた
というお話。

メデタシ、メデタシ。

E.N.D.


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