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なんでもない者、種を蒔く。

前に村のオバチャンと話したとき、山の話になった。


「山は絶対売っちゃだめだよ。売った相手がそのあとどこに売ったかまでわからない。
外国人に転売されてて、知らないうちに産廃の処理場になったり太陽光パネルをつけられてることがあったよ。産廃になったら土も水もだめになる。絶対手放しちゃだめ」と教わった。



友人は古民家を探していた。
ほぼ決定だろうと内見に出かけたものの、
「何か臭う」と保留して独自で調べたところ
「あの家のうえには産廃がある」と判明し、買うのをやめたという。
山が買われ、「水」をだめにされる。
その家が「空き家」になったのには、理由があるのかもしれない。


⛰️


わたしは今「山」を持っていないけれど、
このまま何事なく順番がきたら、
その「権利」は巡ってくるように思う。
今でさえその山の場所を知らないのに(何度聞いてもはぐらかされるところを見ると母も場所を覚えていないのだが)引き継いだとき、わたしに「山を守る」とつよい氣持ちで言えるだろうか。


地元の同世代のひとは、両親亡きあと「家と山」を継いで、ユンボに乗っていた。
不耕起栽培にちかい無農薬の畑をして、山を管理し、家をDIYして生きている。
竹藪を引き継いだ別のひとは、竹を切って燃やして灰にするのだと話してくれた。
別の知人が「竹炭は畑に撒いたらいい土になるよ」と言っていた。


わたしはユンボには乗りたくないし、たぶん
「そっちじゃない」んだよなという自覚はある。
彼らとは腕力も体力もちがう。
わたしには真似できないし、できないことを無理にやらなくていい。真似する必要もない。


「石を掘る」センスすらなかったのに(※書道の落款制作)、木を伐採して土を掘るなど今のところ想像もつかない。
せいぜい草刈り機の扱いを覚えるぐらいだろうか。限定解除とか。(AT車しか乗れないので)


この前、農家に面接に行ったら
「せめて草刈り機が使えて、朝5時から来てもらえるならね…それにうちの軽トラMTなのよ」とやんわり断られた。
募集要項(朝7時からの勤務です)と
現実(ちなみに朝5時からって来れます?)は
得てして、異なるものである。
「経験不問」といいつつ「朝につよい屈強なおっさん来てくれ!草刈り機ガンガン使えるおっさん!」というのが本音だったりする。



これもスピリチュアル的にいうなら「あんたそっちじゃないよ」というお知らせらしいけど、
現実のわたしは三次元にどっぷり浸かっているので「朝5時からってなら募集要項にそう書いとかんかいっ。そもそも受けへんかったわ」と、メラメラ火を燃やしていたりする。


🌲


先日、砂蒸しにむかう道中で山が大きく削られて風景が一変している場所があった。
なにがどうなってそうなってるんだ、と不穏な氣持ちになる。
でもたぶん、メガソーラーじゃないだろうか。


メガソーラーをつけるために森林伐採をする。
生態系のこと、ここを削ったらどう影響するかというのを考えないで木を伐採し
「ここにつけたいからつける」で山を削っていく。「環境アセスメント」をやらずにつけるから嵐が来たら土砂崩れが起きたり、生態系に影響を及ぼしている。
日本の太陽電池メーカーは半永久的に使えるものとしてビジネスモデルをつくって動いていたのが、「赤い国」のメーカー登場によって世界的な方針が変わってしまったそう。




「太陽光パネル」と聞くとわたしの脳内では
イコール「産業廃棄物」「ごみ」となっていたけど、住居用・公共産業用のものはそこまでの公害にはならないという。
(メガソーラーはアウトです。ゴミです)


この動画(↑)たまたま表示されて見てみたらとてもおもしろかった。


「有名人」になってしまうと取り込まれて◎されちゃうから、多くのライトワーカーは「一般人」をして覚醒のとき待っている、らしい。
「今何者でもない人」は「そのとき」が来たらとんでもない力を発揮するよ〜って。
だとしたら楽しみだな。
ちなみに覚醒されたくない勢力があれこれ日本人の生きるちからを削ぐようなことをして阻害してるんだとも。どちみち、両方かみさまの遊びで、「闇側役」「光側役」でかみさまの脚本どおり動いてるだけらしいけど。
なんなんだその茶番w
でも、宇宙の発展と地球の調和、存続のために必要なことなんだろうなぁ。


いっとき見ていた某星読み師の方が
「うえからおりてくる」とおっしゃっていて、
「あ〜…wそういう感じのセルフプロデュースしてるひとなのね」
と屈折した見方をしていた時期があった。
が、自分も「それ」にちかいものを受け取ったとき、「あ」となった。やはりそれは
「うえ」というよりほかないのだと思い知った。
インスピレーション。直感。
つかうごとに「うえ」とのパイプが強化されていくような感じ。


「ライトワーカー」がなんたるか、
わたしにははっきりと答えることはできない。
だけど興味のあるほうへ何も考えずに進んでいくわたしにある人は「シャーマンやな」と言い、またある人は「スターシード」と言った。
本人の言葉なのか、彼らの口を借りて「誰か」が言ったことなのかは、わからない。


自分が何者でもなさすぎて
「自己紹介」の記事すら、書くことができない。
好きなものも、興味もめまぐるしく変わるから
書いたそばから「ちがう」ってなるし
「創作をしたいな〜」といいながら、
のんべんだらりと日々を過ごしている。

ずっとなにか、そわそわ、している感じ。

これまではずっと「なにかしなきゃー!!!」と
めまぐるしく動いていた。
止まったら死ぬんか、というぐらいじっとしていなかった。外で仕事を複数かけ持ちして、家に持ち帰って、家でもずっと仕事をしていた。
ずっと仕事してた、という自覚すらなかった。
いまそういうのを全部やめて眺めてみると、(これまた極端なんですけどw)
「今そわそわする」のも無理はないか、と思う。
「動いてなきゃ!」と思いこんでいたのだ。
「何者でもないから、何かにならなきゃ」と。
今はそういう氣負いがなくなって、
何者でもないけど、まあいっか、とゆるゆる生きている。


いつだったか、当時ニートをしていた知人が
「写藍さん、ドラクエやと《遊び人》は《賢者》になれますから」と笑っていたのを思い出す。


「自分のわくわく」をやり続けていれば
雪だるま式に「わくわく」は増幅するという。
世間の「斯くあるべき」から抜け、
「みんなと同じようにユンボ乗らなきゃ」
「山の手入れしなきゃ」もやめて、
自分のわくわくを増やしていけばわたしも
「賢者」とはいかなくても、
「隠者」から「陽氣な隠者」ぐらいにはなれるんじゃないだろうか。


🌧️


滝に「おまえは滝じゃないから山に戻って雪になりなさい」って言っても無駄なことだ。
すべてのものは変化し続けている。
それが「自然の摂理」だ。
変化して、循環している。
留まる必要もないし、流れを堰き止める必要もない。
滝は川へ、川は海へ、水蒸気となり雨となり、山へ落ちる。
水になったり固体(雪や氷)になったり、氣体になったりして、ずっと循環している。


人間も、ずっと変わり続けている。
わたしも「なにも変わっていない」ようで、
じわじわと変化しているのだと思う。


山よ。いま、どうなっていますか。
どんな生きものが生きていますか。


満月🌕に蒔いた枇杷の種、発芽。



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