単純な二極化は思考停止。
「これ、どう思う?」
とある人に紹介された、とある人のツイート。政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の尾身茂副座長を称賛する内容でした。「公衆衛生で大事なのは、相手の靴を自分の足で履いてみること。相手の立場と気持ちになれなかったら、相手を動かすことはできない」という尾身氏の言葉が紹介されていました。素直に共感できる良い言葉だなと思いました。
ところが、そのツイートに対する返信を読んでいくと、何やら5月11日に行われた参議院予算委員会でのことが話題になっていました。返信の中には、「チンピラ議員の相手させられて可哀そう」「罵詈雑言で罵倒することでしか自己表現できない方々に議員の資格はいかがなものか」「絶対にあの福山の態度は忘れない」などと書き込まれていました。何が起きたのか。そのツイートだけ見ても判断ができないので、話題となっている委員会の動画を見てみることにしました。
福山議員が参考人の尾身氏に質問をする場面。
福山議員は「尾身先生、(新型コロナウイルスの感染者が)10倍いる可能性を否定もできないし、肯定もできないんですよね?」という質問を尾身氏に投げかけました。これに対して、尾身氏が答弁しようと歩いてきた時、安倍首相は尾身氏に何か言葉をかけました。それに対して福山議員はじめ、立憲民主党は答弁指示をしたとして抗議をし、議事録を一旦停止、会場が騒然とします。
答弁が再開すると、尾身氏は「大切なポイントを指摘していると思います」とし、陽性率の説明を始められました。途中、途中、福山議員が腹を立てて急かすような言葉が聞こえます。尾身氏は冷静に話を続けて、「仮に東京都が7%の陽性率だとしますと、地域のコミュニティの一般は7%を超えることは普通はないだろうと考えるのは今のとこの常識です。以上であります」と答弁を終えました。
福山議員は「まったく答えていただけませんでした。残念です。わたしは当初のクラスター対応を批判しているわけではありません。検査を絞って重篤な患者さんを優先する、医療機関の対応がまだ準備ができていなかったと理解していますが、これだけ感染経路不明な状況の中で、それから無症状や軽症の方が院内感染を広げているというような状況があちこちあって、なおかつ岡江久美子さんのように自宅待機だと言われて容体が変化して亡くなっている方がたくさん出てくる。そして専門的ですけど超過死亡(新型ウイルス流行に伴う医療崩壊により他の病気の治療を受けられなかった人など)は2月、3月強烈に増えている。そういう状況の中で今の1万5千だけではないと、尾身先生も西浦先生も言われている。そのことについて謙虚にしないと全体像が見えないんじゃないかと言っているんです」と返しました。
これを見て、尾身氏は福山議員の質問にハッキリとは答えなかった、というのが私が持った印象でした。福山議員の態度はよくなかったとも感じていました。答弁する尾身氏に対して威圧的であったと。最初の話に戻って、私への質問に対する回答は、「尾身氏の答弁が称賛されて、福山議員のみが非難されることには違和感がありました」というものでした。
すると、Twitterでは、【福山哲郎議員に抗議します】というハッシュタグが付いたツイートがトレンド入りしていました。そのツイートには、冷静に質疑に応える尾身氏に対して一方的に罵声を浴びせているように見える福山議員の動画が一緒にアップされていました。なるほど。これだけ見たら福山議員が紳士的な対応をする尾身氏に詰め寄るただの悪い人に見えるなと。やり取りの全体を見ると、尾身氏に罵声を浴びせているように見える福山議員の言動のほとんどは、尾身氏に答弁指示をしたかに見える首相に対するものであったことが分かります。切り取り方でどうとでも理解されうる怖さがありますね。ちなみに、この件について取り上げた一部のマスコミの対応にも違和感がありました。全体を見ず、Twitterの反応を鵜のみにしたまま非難している報道があったかなと。
5月13日、福山議員はみずからのインターネット番組で「尾身氏には、この間のご尽力に感謝と敬意を申し上げて、敬意をもって質問していたつもりだが、少し言葉も含めて厳しい口調になった」と説明し、「不快な思いをさせた方々がいらっしゃるということで、今後は丁寧な質疑をしたいと思うし、私の本意ではなかったのでおわびを申し上げたい」と謝罪されました(NHK:立民 福山幹事長が謝罪 尾身氏への質問で 「本意でなかった」)。
この話だけではなく、最近は特に、議論が二極化する傾向が強いと感じています。ゼロか100か。白か黒か。世の中にあるほとんどの物事は、単純に2つには分けられないのに、どちらかが完全なる善であり、悪であるというような、何でもかんでも優劣をつけようとする動きがとても苦しい。
どちらかが絶対的に正しいと考えることは、原理主義的な宗教に似ている気がするのです。信仰することが悪いという意味ではなく、自分の絶対的な価値判断を硬く信じ込み、別の意見を聞き入れる余地がないという意味です。自分が正しいと思うことを正しいというのは悪い事ではありません。ただ、世の中の出来事のすべてにおいて、二者択一にしてしまうと、実際とは大いにズレる可能性があるし、何より自分自身を、社会全体を窮屈にしてしまいます。
答えを極端に単純化してしまうと、物事だけでなく、他者への態度も極端なものになってしまう怖さがあります。「この案は全体的には悪くないけど、この部分は変えた方がいいよね」「これまではダメだったけど、こういう場合はOKじゃない?」「口は悪いけど、根は優しいんだよ」などなど、1つの物事、一人の人の良し悪しは二択じゃないですよね。単純ではない物事を、2つの答えだけに集約しようとするとは、「思考停止」と同じことではないでしょうか。
不安が不満を呼び、不満が不信を抱かせる。不信が新たな不安や不満につながっていく。そんな負のスパイラルが加速しているように感じる今日この頃。「自粛警察」というのは典型例だと感じます。物事を二極化して考えていないか、物事を判断する前にひと呼吸おきませんか。イラっとしたら要注意です。怒りによって冷静な判断が難しくなっています。その怒り、そのまま投げて大丈夫ですか?怒りのピークは6秒であり、「6秒をやり過ごせば怒りに任せて衝動的に行動しにくくなる」(2016, 戸田久実「『怒りのピーク』は6秒、感情と上手に付き合う秘訣」NIKKEI STYLE)そうです。もちろん、落ち着てい考えても怒りが収まらない事は怒りましょう。
時間も空間も連続し、変化もしています。その一瞬一瞬に正しいと思ったことは変化していくのです。物事を判断する瞬発力が必要な時もあるでしょうけど、今のような世の中だからこそ、ひと呼吸、深呼吸をしましょう。加えて、切り取られたものだけを見て瞬発的に判断せず、全体像をなるべく自ら把握してから判断するようにしたいです。特に、違う意見には耳を傾け、二者択一ではない、ものの考え方ができると、窮屈な自分の思考や社会を変えていけるのではないでしょうか。
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