「ネガティブな思い込み」は「ただのテキストだ」という捉え方
先日の秋晴れの気持ち良い日曜日は、
奥多摩で仲間とLSDでした。
(ロングスロウディスタンス)
走りやすいロードでありながら
山なのでまあまあハードな24キロ。
往路は地味にずっと上り基調。
アップダウンもあるし、
それなりに足腰にききました。
奥多摩といえば澤乃井酒造。
走ったあとの打ち上げは、
気持ち良いオープンエアでやりたかったので、
寒くなる前にお開きできるようにと
スピードも重視でした。
当然休憩時間も最低限。
われわれ、
シーズンに2〜3回フルマラソンを走るので、
それなりに練習は積んでます。
24キロはもはや
そんなに大それた距離ではないんですが、
時間と負荷を課されると、
練習の度合いはグッと上がります。
わたしは今回の練習会仲間の中では
走る力が小さい方です。
55キロ以上走ったことないし、
フルマラソンで4時間を切ったことはないです。
そう言った意味では、それができる仲間より
自分の方が「かよわい」と思い込むんですよね。
だから、きつい練習をしている時
「きついのはあたしだけ」
と感じてしまうんです。
だから、ついていけないし、
だから、走りきれないと感じがち。
たしかに、スピードは力の差が出ますから、
自分より早く走れる人のスピードに
ついていけないということはあるんですが、
負荷についてはおそらく、
こないだくらいの練習だと
スピードほどの差はないんじゃないかなぁ。
(勿論桁外れの負荷ってケースはあり得るけど)
でも、
「この中であたしはかよわい」と
一度感じてしまうと、
スピードについていけなくなった時点で、
「もう走れないかも」
って感じてしまうんですよ。
自分に力がないから、
みんなより先に限界が来てしまったと思い込む。
結果、走り続けられなくなっちゃうんです。
だけど実は、
自分よりも走力が大きな人たちにとっても、
負荷の大きな練習はきついんです。
彼らもあたしと同じように
「もう走るのやめて電車乗りたい」
って思ったりするんですよ。
そう思っても走るのをやめない理由は、
自分はか弱いという思い込みを持っていない
もしくは、
かよわいと思ったとしてもそれを
「ただのテキスト」として扱って、
走り続ける思い込みを採用するからです。
『このコース、みんなキツイに決まってる』
そう思ったら、
終わるまで走り続けるしかないわけです。
「この中であたしが一番力がない」
かもしれないけど、
「みんな同じようにキツイ」
んだから、
ついていけなくても走り続ければいいんですが、
走るのをやめてしまうあたしと
最後まで走り続ける仲間を比べると
決定的に違うのは、
『走り続けられる』という
自分にとって有効でポジティブな
思い込みを持っているかどうかです。
「この中であたしがいちばんかよわい」
という文字がただ並んでいるに過ぎない。
と捉え変えられるようになると強くなる。
そもそも力を比較する必要も
罪悪感を持つ必要もないって気づく。
走るってつくづく
メンタルの影響大きいなぁと思います。