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駆け落ち

 薄っぺらにも程がある言葉を連ねた書き置きを残して自分は今この家を出る。ありったけの荷物を詰め込んだスーツケース。それを手にして玄関のドアを開けようとした時、ふと惜しくなって後ろを振り向いた。バカだなって自分でも思う。このまま隠れて続けてればよかったじゃんって思う。だけど私は自分には嘘はつけない。他人についた無数の嘘を悔いたりしないけど、今の自分に嘘なんかついていたら絶対に後悔するだけなんだから。

 バカだなって自分でも思う。このまま隠れて続けていればよかったって思う。何度もリフレインするこの言葉。向こうからやってくる電車。その車両の開かれたドアに乗るように私は彼という電車に乗ってしまったんだ。車両に入った私を暖房が温める。彼もそんなふうにいつも私の心を温めてくれた。泣けるほど、切なく。狂おしいほど、激しく。夜の絡み合いの中で彼はいつも私にこう言ってくれた。「メイクの君も素敵だけど素顔の君はもっと素敵だ。君の素顔は僕だけのものだ」私は彼だけに自分の素顔を見せた。旦那にだって滅多に見せなかった素顔を。

 電車はガタゴト揺れて私を彼とのまちあわせの駅まで連れてゆく。二人で交わした約束。ベッドでもメールでもLINEでもどこでも誓った事。バカだ私たちバカだって何度も自嘲してでもやっぱりそうするしかないって二人で下した結論。でももし彼がふと我に返ってしまったら……。そうしたら私はどうしたらいいのなんて悪い想像して胸が苦しくなる。お願いだから引き返さないで。私だけを置いてけぼりにしないで。揺れる列車。ただ不安げに駅へと向かって走る。

 駅についた私。到着のメールを送ろうと早速スマホを開ける。だけど突然かけられた愛しい声。体全身に鳥肌が立つような歓喜の声。彼は先に来て私を待っていたんだ。私と同じようにスーツケースを引いた彼。彼は照れたような笑顔で自嘲してこう言う。

「俺たちってやっぱりバカだな……」

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