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File 2 真実の扉を開いたふたつの信念(1)
1.はじめに
今回は、私が今でも強く心に残っている2つの事件について、そして、それぞれの事件に関係する二人の人物、このまったく立場の異なる二人の人物が自分の直面した事件の後、どのように目の前に突き付けられた事実に立ち向かっていったかについて述べてみたいと思います。この2つの事件に接点は全くありません。しかし、私はこれから述べる二人の行動が真実を突きつめるという信念において、底流では深くつながっていると考え、ここに紹介させていただきたいと思います。
では、これからそれぞれの人物がどのように真実と向き合い、どのように立ち向かったのかを、主に、各種報道をベースに伝えていきたいと思います。
2.第1の事件
200〇年、ある日の未明、とある地方都市の住宅地で火の手が上がり、そこで暮らしていた3人の家族のうち2名が死亡しました。翌日に引っ越しを控え、荷造りに疲れた家族はすでに寝入っており、逃げ遅れた住人の妻(当時46歳)と次女(12歳)が死亡したのです。この家の主人は火事に気付いてなんとか無事に逃げ出し、長女は県外で暮らしていました。
翌日、この火事で死亡した2名の司法解剖が行われ、私も助手として参加しました。火災で死者が出るとほとんどの場合、司法解剖が行われます。これは、火災によって死亡したのか(いわゆる焼死)、何らかの理由で殺害された後に火をつけられたのかなどを判別することを目的に行われます。事件か事故の鑑別です。私にはこの解剖に関する記憶はほとんど残っていません。ということは、この2名の直接の死因は火災を原因とした一般にいう焼死であり、直接身体に傷害を受けたとか死後に火をつけられた痕跡などの直接的な犯罪性はなかったということを物語っています。
しかし、残念ながら司法解剖から火災の原因までは特定することはできません。もし放火であれば立派な犯罪です、放火及び殺人罪にあたります。何らかの原因による失火であれば、過失であり犯罪にはあたりません。火災の原因はさまざまで、それを調べるのは消防や警察の役目です。ではなぜこの事件がいまだに私の記憶に強く残っているのでしょうか…
それは、この火事に関し、「放火殺人ではないか、しかも犯人はこの家の主人で、保険金狙いだったのでは?」というまことしやかな噂が流れ始めていたからなのです。この事件の以前から、同じ市内では不審火があいつでおり、事件の当日には5件もの火災が続けて起きていたようです。元横綱貴乃花夫人の実家も、この事件と直接かかわりがあるかどうかはわかりませんが、この当時、全焼しています。
3.第2の被害者
家族と過ごした我が家は焼け落ち、そして何より長年寄り添った妻と幼い娘の命まで失ったうえに、まったく身に覚えのない噂を立てられたご主人がいかに苦しんだか、また、その後どのような活動を始めたかについては、後に本人の口から語られています。
その詳細は記事の通りですが、噂の底流にご主人が外国人であったこと、これまで行ってきた事業をたたんで翌日に県外への引っ越しを控えていたことなどがあるのではないかと思います。ただし、ご主人が外国人であったことと、外国人差別とは全く関係ありません。逆に、温暖でのんびりとした風土であり、ときにダメだしされるような県民性であることからしても、他の地域と比べて排他性は極めて低いと思います。このことからも長く地域に溶け込んで生活してきたご主人とご家族に対する差別感情などはほとんどなかったものと思っています。
ただ、当時、一地方都市であったこの地域には今ほど外国人は多くありませんでした。したがって、別の意味で目立っていたのではないかと思います。かえって外国人の数が少なかったために、その地域で外国人一家といえば、だれもがご主人一家のことを思い浮かべたのではないでしょうか。
しかし、私がここで述べたいのは、このご主人のことやその後の活動に関してではなく、陰でご主人の濡れ衣を見事に晴らした、決して表に出ることのない、ある一人の刑事の執念についてなのです。
4.刑事の勘
火災の被害者である母娘の解剖を担当したことは先に述べましたが、では、この司法解剖とはどのような手続きを経て行われるのでしょうか。先ず、警察組織は県単位で独立しており、各県庁所在地には県警本部が置かれ、県内の各地に配された警察署をまとめています。皆さんがよく見かける制服を着た警察官は、そのほとんどが各地の警察署に所属しています。
事件や事故は、いずれかの地で発生しますので、それに応対するのは、まずはその地域を担当する警察署の警察官になります。各警察署には刑事課が置かれ、犯罪捜査を担当する刑事が配置されています。事件の疑いのある事案が発生すると、刑事課に所属する刑事が現場を担当することになります。しかし、警察署の刑事では対応しきれない重要な案件に対しては、県警本部に所属する刑事部の刑事が指揮、助言を行いながら捜査が行われます。
この県警本部の刑事部の中に、検視官室という部署があり、通常数名の検視官、検視官補佐という立場の刑事たちが(各県の事情により人数は異なる)が配置されています。どこかで変死体が発見されると、地域の所轄署から検視官室に連絡があり、死因を特定したり、犯罪性を判別するための検視を行います。
これは正式に医師が行う検死とは異なります。有名なのはドラマ「臨場」で描かれた世界(現実とはだいぶ違いますが、物語としては面白い)です。死因解明の専門家ともいえる検視官が行った検視によっても死因の判別ができない、犯罪の可能性が排除されないと判断された場合、さらに詳しく死因を特定するための司法解剖が行われます。
この火災の被害者の検視を担当したのが、当時、検視官補佐であったA刑事です。彼は、検視官補佐として3年ほど勤務しており、私ともよく言葉を交わし、比較的仲の良い関係でしたが、通常2年、長くても3年で配置転換のおこなわれる警察組織にあっては近く検視官補の職を離れ別の部署に異動する見込みでした。検視官補を経験した刑事の異動先は、多くの場合、地方の警察署の刑事課です。これは、中央の警察本部で検視や司法解剖を経験した刑事が、地方で変死体が発見された場合に、犯罪の可能性を見逃さないために設けられた制度の一環です。こうして地域の安全が守られていることを知っている市民は、あまり多くないのではないでしょうか。
これまで述べてきたように、この火災に関しては、あらぬ噂話が囁かれるばかりで、事件とも事故とも結論は出ていませんでした。日々の仕事に追われすっかり火災のことやA氏が異動になったことなど忘れていたある日、別件の解剖の立ち合いに現れたA氏の姿を見て、私は驚きを隠せませんでした。
久しぶりに見たその姿とは、無精ひげは伸び、目は落ちくぼみ、何日も寝ていないないのは明らかです。一体どうしたのか、体は大丈夫かと訝しんだ私は彼に尋ねました。「今、ある事件を追っていて、張り込みを続けている。」という答えが返ってきました。そうです、彼は火災のあった地域を担当する警察署の刑事課長として栄転を遂げていたのです。今考えると、彼は自ら志願してこの警察署に移動した、あるいは、彼であればこの事件に決着をつけられるとの期待が警察の上層部にあったのかもしれません。
彼が言うには、この事件の当初から、これは犯罪、つまり放火ではないかとの「勘」が働いていたそうです。絶対に犯人を捕まえる、次の犯罪は許さないという決意が遠めに見ても伝わってきました。そして彼は、ある人物に焦点を当てていたのです。「絶対にもう一度やる!」とつぶやいていたのを今でも鮮明に記憶しています。
5.犯人確保
A氏には、この事件の検視を担当した当時から、これは絶対に単なる失火ではなく、放火に違いないという「刑事の勘」が働いていたのだと思います。この「刑事の勘」というのは、彼の刑事としての長い経験から培われたものに間違いありません。誰しもが直感的にある種の「勘」に助けられ、危うく難を逃れた経験があるのではないでしょうか。
ちなみに、ChatGPTに「刑事の勘とは?」と聞いてみると、以下のような答えが返ってきました。
【刑事が長年の経験や直感に基づいて、不審な人物や事件の異常を察知する能力を指す言葉です。
これは論理的な証拠や分析だけでなく、「何かおかしい」「この人物は怪しい」と感じ取ることを意味します。ー以下略ー】
満員電車内でのスリや痴漢の摘発に関しても、駅構内で見回り警備に立つ刑事たちの「勘」によるところが大きのは周知の事実だと思います。この「刑事の勘」とは、今でもさまざまな事件の解決のために大きな要素を占めていると言わざるを得ません。しかし、この肝心な「勘」に頼る捜査を恐れた結果、後の裁判で無罪判決があい次いだ時期が存在しているのも事実です。このことについては後々述べていきたいと思います。
この時、A刑事は一人の男に狙いを定めていました。この男(当時37歳)は、何度も盗みや放火を繰り返し、服役した過去を持っていました。そして、彼の出所後まもなくして不審火が多発するようになったのです。後の裁判で、裁判長はこう述べています。
「仕事や(借金など)金銭面でのうっぷんを晴らすため、七カ月で五回の放火を繰り返すなど身勝手さは厳しい非難を免れない。二人の犠牲者が出たことを知りながら、さらに放火に及んだことで常習性は顕著である。」
この事件のあと、しばらくの間、不審火騒ぎは収まっていました。おそらく、犯人は単なるコソ泥で、憂さ晴らしに放火を繰り返す愉快犯だったのでしょう。まさか、自分の放火によって死者が出るとまでは思っていなかったのでしょう。そこで、しばらくの間は身を潜めていたのだと思います。しかし、しばらくするとまた同じ市内で連続して不審火が起き始めたのです。私がA刑事と再会したのは、ちょうどこの時期に当たっていました。
A刑事の捜査チームは出所後間のないこの男に的を絞り、連日、張り込みを続けていました。その心には、「こいつはまた絶対やる。死亡した母娘の無念は俺たちが晴らす!!」という強い信念があったにちがいありません。そしてある夜、いよいよ男が動き出しました。尾行した捜査チームは、この男があるアパートの一室に入り、金目の物を物色しているところを窃盗の現行犯で取り押さえたのでした。すでに、あの夜の火災から半年近くが経っていました。
6.訪れた平穏
この一報を聞いた時、私は、「とうとうやったか、さすがや!自分にはできないな。」と、感心したことを覚えています。あんなにボロボロになりながらも執念の捜査を貫いたA刑事に率いられたチームにつくづく頭の下がる思いを抱いたのです。犯人ではないかとの陰口から解放されたご主人と残された長女の思いはいかほどのものだったのでしょうか。
しかし、犯人逮捕とそれを伝える報道は事実のみを淡々と伝えるだけで、寝ずに張り込みを続けた捜査員たちの姿が掘り下げられることはまずありません。そもそもそれが警察の仕事と割り切ってしまえばその通りですが、このような捜査は、次の犯行は絶対に許さないという強い信念に貫かれていなければ簡単に成し遂げられるものではありません。今も、こように地道な捜査を続け、市民の安全を守っている警察官が全国に大勢いることを忘れてはいけないのす。
こうして、街はまた平穏な暮らしを取り戻しました。そして、幾年ほど経った頃でしょうか、真新しいスーツに身を包んだA刑事が、「今度、県警本部の検視官として戻ってきました!」と、新任のあいさつのため再び私たちの前に現れたのです。
今度は検視官室のチーフとしての着任でした…
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