エーリッヒ・フロムとマッチングアプリ
唐突だが,私はマッチングアプリの利用に形容し難い嫌悪感がある。本稿では,その嫌悪感の正体をエーリッヒ・フロムの『愛するということ』をヒントに分析していきたい。
本書は,「愛すること」について説いた名著である。冒頭では,現代人は「愛すること」よりも「愛されること」を偏重するきらいがあると指摘される。「愛されること」ばかり考えている人は,愛について,自己の能力の問題ではなく,愛する対象の問題として捉えがちであるという。つまり,「いつか自分に相応しい人が現れたら,愛を育むのは簡単なことだ」という訳だ。しかし,他者を愛する能力をなおざりにして,そう上手くいくはずがない。
フロムは,現代人が「愛されること」を偏重してしまう要因について,次のように分析している。
第一に,近代から現代にかけて,家父長制などの伝統的な家族関係が解体され,子の婚姻に親族が介入する程度が低くなった。そのため,子には自由恋愛という選択肢が現れ,ロマンチックラブが志向されるようになったという。
第二に,資本主義思想の影響がある。資本主義社会では,自分の持っている物(貨幣)と交換可能な商品を市場で購入する。当然ながら,そこでは所持金が多ければ多いほど,より多くの(より良質な)商品を手に入れることができる。これのアナロジーとして,恋愛関係において我々は,もっともっとモテるために自分に要素を付け足していく。男性なら社会的地位,年収,上昇志向,トークスキルなど,女性なら顔貌,服装,気遣いの上手さなどといった具合である。このような自分の要素と相手の要素とを比較し吊り合ったとき,主観的には「自分に相応しい」と感じ,客観的にはいわゆる「お似合い」と呼ばれるわけである。
しかしながら,上に列挙した男女それぞれが志向するであろう要素は,当然ながら普遍的な価値を持たない。場所や時間が違えば価値観は容易に変わる。それに人々が良いと思って追求する価値は,人間の善き生にとって価値があるのではなく,大抵の場合,資本主義市場にとって価値があるのである。
要するに,ここでは愛されるために企業・市場が用意したものを追求することの虚しさを指摘しておきたい。そして問題なのは,「愛されること」ではなく「愛すること」なのである。
さて,話をマッチングアプリに移す。
話を聞くところによると,マッチングアプリというものは,プログラムが自分とマッチしそうな候補を紹介してくれたり,相手からアプローチがあったりとかで,一日に何十件,下手したら何百件もの人とマッチングするらしい。次に,マッチングした大量の人々の中から,実際に誰と直接会うのかを選ばなければならないのだが,その様子はさながらウィンドウショッピングである。
マッチングアプリのこのようなシステムは,愛の問題に関する利用者の意識を「愛すること」から「愛されること」へとすり替える。利用者は,「いつかは自分に見合った人とマッチングするだろう」と考えて,自分を顧みることなどしなくなる。
このような態度の人が,何百人とマッチングしたところで猫に小判である。
ということで,私の嫌悪感の正体は,マッチングアプリそのものではなく,その利用者の態度であった。もちろん,上述のようなマッチングアプリのシステムが,そのような利用者の態度を助長させている可能性は十分あり得るが,最終的には利用者の性格に関わる問題である。実際,マッチングアプリを始めてみたがすぐに辞めてしまったという人の中には,相手に好印象を与えようとか,好かれようとすることに疲れてしまった人も少なくないようである。
参考文献
エーリッヒ・フロム(著)鈴木晶(訳)『愛するということ』(2020,紀伊國屋書店)