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もう「父」と呼べなくなっていくカウントダウン ②
そして、ある日。
母は先生に「自宅療養に切り替えますか?」という提案を受けた。
その一言で、もう何をしてもダメなのだと悟った母。
ついに父に病状を話したが、父は何も驚かず、まるで全てを知っていたかのようにこう言った。
父:「どうせなら最後くらい、俺の故郷に一度帰りたいな。みんなに会いたい。」
母:「…そうね。わかったわ。どうせ待つだけなら先生に掛け合ってみる。」
母:「本人の意思で中国の故郷に帰りたいと言うのだけれど、飛行機に乗るのとか大丈夫でしょうか?」
先生:「正直言うと、おすすめしません。〇〇さん(父の名)は全身にも、脳にも転移しています。飛行機に乗るということは、時限爆弾を抱えたまま乗るのと同じです。途中で何が起きてもおかしくない。ですが、それでもということであれば最善の処置はします。ただし、その間に起こることについて責任は負えません。」
その言葉を聞いた母は父に確認した。
先生が説明したリスクを全て伝えたうえで、父の意思を問うと、
父は「大丈夫だ。やはり中国に戻りたい。」と強い意志を示した。
母はその言葉を尊重し、先生や飛行機会社とも話し合い、最善の準備を進めていった。
父が入院していた間、
私と妹はおじいちゃんおばあちゃんの家で過ごすことが多かった。
その頃の私は中学3年生。
ストレスや家庭の不自由さ、そして妹への嫉妬心が心の中で渦巻いていて、私はすでにいっぱいいっぱいだった。
妹が生まれてからというもの、父も母も妹に溺愛しているように見えた。
正直、当時の私は父の病状を心配するよりも、
「私はいらない子なんじゃないか」と思い悩むことのほうが多かった。
そんな私にも、父が中国に行くと聞いて、できることがあった。
手紙を書いて、妹とのプリクラを一緒に入れて渡したのだ。
「向こうに着くまで見ちゃダメだよ!」と念押しをして渡したその手紙には、「早く元気になってね」という内容を書いた。
ただ、心の中では「私と妹、どっちが大事なの?」と問い詰めたい気持ちもあった。
だけど、手紙を渡した時、父が言った一言が心に刺さった。
父:「大丈夫。妹ができたとしても、お姉ちゃんのことは相変わらず大事だよ。どっちも変わらない。パパにとっては、どっちも宝物だから。」
その言葉を聞いて、
私はようやく妹への嫉妬心から解放されたような気がした。
その後、
父が無事に故郷に着いたと連絡があり、私はほっと胸をなでおろした。
けれど、数日後、母から1本の電話があった。
「病状が急に悪化した。ガンが骨にまで転移して、もう自分ではなにもできなくて、寝たきりになってしまっている。」
その言葉を聞いて、急遽私たちも父のもとへ行くことになった。
本来なら、父のために一刻も早く行きたいと思うのが普通なのだろう。
でも、その時の私は違った。
なぜなら、ちょうど修学旅行(in 台湾)と日程が重なっていたからだ。
当時の私は学校でいじめられていたけれど、
少しでもみんなと仲良くなるチャンスを伺っていた。
だからこそ、この修学旅行は私にとって重要なイベントだった。
「目の前の優先すべきことは修学旅行。父のところに行くのはその後でもいいじゃん。」そう考えてしまった自分がいた。
しかし、担任からも「家族の方が大事だ」と諭され、
私は父のもとへ行くことを決めたのだった。