高校時代の希死念慮と、ものを書く能力
僕の文章力は死にたがっていた高校生時代のものなので、死んでいる場合じゃなくなった今、もうそれは必要なくなって消えてしまったのだと思います。
今はただ自分なりの美醜を区別する感性のみ残っています。酒をやめたら人生が貧しくなった人みたいに、僕にとっての希死念慮は酒やタバコと同義でした。「死にたい」「消えたい」っていう思いでうまくいかないことに折り合いをつけることで、可愛その自分を無意識に肯定していたんだと思います。桜の花とか、空想上の夏とか、はかなげなものが美しいと言うなら、同じようにはかなく散っていく自分の命も美しいとか、そういうことを思っていたのでしょうか、もうはっきり覚えていません。
でもやっぱりきれいに生きてみたくて、自分が綺麗な感性を持って物を見てるんだ、今を生きてるんだってことを証明したくて、ものを書こうとしています。
人生の目標ができたのは良いことです。そのために希死念慮が消えたのも良いことなのでしょう。今でも死にたいと思う事はありますが、それは「休みたい」とか「受験勉強から解放されたい」という意味に置き換えられる「死にたい」です。高校の頃は「人生」から解放されたくて死にたがっていました。
今こんなに幸せであっても、後にやってくる不幸で簡単に上書きされてしまう。ずっとずっと何度も何度もそれを繰り返していく。だから幸せだなと思った時そこで終わらせたいといつも思っていました。
まぁその時に三秋さんを知ってしまったのだから、そりゃのめり込んでしまうわけで、僕はもうすっかり彼の描く世界の虜になってしまいました。小説に出てくる表現が、僕の言いたいこと思っていることを1番的確にきれいな言葉で書いてくれて、どれほど共感したことか分かりません。
いつか作品の感想も書きたいなと思います。
さてまだまだ駄文ではありますが、少しをうまく自分の言いたいことかけたんじゃないかなと思います。
それぞれに解釈は少しずつ違えど、三秋さんの作品を美しいと思う人がここにまばらに生息していらっしゃることがこの上なく嬉しいです。