ガルクラ「空白とカタルシス」MV感想 二次元とCGの使い分けに注目して

 


 この感想は以前書かれたものを下敷きにして、「空白とカタルシス」のMVについてどんなことが言えるか、を考えようとしている。

 そこでは、第7,8話について考えられていた。<二次元⇔CG>の違いは、<過去⇔現在>あるいは<幻想⇔現実>という対立に対応している、という考えを、仁菜と桃香の回想を手掛かりにして考察したのだった。

 以下はこの観点をもとにして話を進めている。このMVの二次元とCGを、上の図式に配分することを通じて、なにが見えてくるのか。

「思い」と関連する二次元

 二次元で描写されるものとして、ここまでなにがあったかをおさらいしてみよう。たとえば第8話では、桃香の回想は二次元だった。それはおそらく、桃香の過去にたいする感情によって彩られた結果だった(※)。

 また第10話では、ルパのファンサで感激するファンたち、という一幕は二次元で描写されていた。そこでは、熱狂の空気感を表現するために二次元という媒体が用いられていたのだった。

 これらと同じことが、このライブのMVでもあてはまると思う。つまり感情や熱狂がそこにあるとき、その対象は二次元となって提示されるように思える。

 もちろん、CGを用意できなかったという実際的な理由があるのかもしれない。けれどもそれをうまく演出のために逆手にとって利用しているようにも思える。

 感情という点では、特に曲の2番以降の映像に注目しよう。そこではメンバーたちの「核」となった経験が二次元アニメーションによって挿入される。これらは実際にあったものというよりは、イメージ的なものだと考えられる。あるいは、第8話の桃香の過去のように、心象によって脚色された記憶か。その脚色が、二次元で描写されることによって表現されている。これらは、いわばイメージによって飾られた「情景」だ。

 このイメージにまつわる二次元とCGの使い分けは、このMVよりもOPの「雑踏、僕らの街」のほうがわかりやすいかもしれない。あちらでは非現実的な、イメージ的な表現は二次元で描写されていた(冒頭、人形の仁菜たち、最後の仁菜が過去の自分に小指を立てて降下していくシーン等)。CGに比べて、二次元はある心象を付加されて、そのぶんドラマチックなものとして映る。「空白とカタルシス」は、OPのその手法を、より人物たちの現実に、あるいはライブという場に即して用いているとも言える(※2)。

 熱狂という点では、ライブを観ているダイダスの面々や三浦さん、ときどき(おそらく作画上の問題だけれど)二次元になる観客たちがあてはまる。ライブの空気に煽られた昂揚の空気感が、彼ら彼女らを二次元として描写することで表現される。

 このように、二次元の描写は、そこにある「思い」との関わり合いのなかで、登場しているのだと考えられる。

「今」をあらわすCG

 他方で、このような二次元への変換は、ライブ自体には及ばない。言い換えると、その熱狂の中心であるはずの「歌を奏でている仁菜たち自身」は、その変換を被らない。彼女たちはCGのまま描写されつづける。

 メタ的に言ってしまえば、ライブの臨場感を表現するためにCGを用いているのに、それをわざわざアニメーションにするのは本末転倒なのだろう。そのメタ的なものをあえて無視して、積極的な意味を見出そうとしたとき、これは、第7話でのトゲトゲの5人で撮った写真について考えた話と、交錯するかもしれないと思った。

 もういちど思い起こしておくと、例のページでは、<二次元⇔CG>は<過去⇔現在>あるいは<幻想⇔現実>という対比に対応して配分されているとされている。そこでは、なぜ第7話で撮ったトゲトゲの写真は、被写体が二次元にならないのかを考えている。詳細は省くけれど、それはその写真を撮った瞬間が、「今」であって過去にはなっていない現在だからだ、ととらえたのだった。

 それを踏まえるなら、このMVで彼女たちが徹底してCGのままなのは、熱狂をつくりだしている、その根源である彼女たち自身には、徹底的に、それを奏でている「今」しか存在しないからなのかもしれない。ライブを創り出している彼女たち自身に、イメージや心象が介入することはなく、ゆえに二次元化されることはない。過去も未来もなくなって、彼女たちには「今」しかない。だから、彼女たちはCGのまま二次元にはならない。

 たいして、そのライブの周囲にある存在は、その音に煽られて熱狂する。その熱狂の空気感のために二次元として表現されることになる。ちょうど、第10話でルパの周囲を取り巻いていたファンたちのように。

<二次元⇔CG>と対応する<幻想⇔?>?

 冒頭に貼ったページでは、<二次元⇔CG>は<過去⇔現在>あるいは<幻想⇔現実>という対比をなすのではないかと書かれている。このMVにおける使い分けは、どちらかといえば後者の<幻想⇔現実>のほうに比重がある。「ライブの熱狂の空気感」、「過去のイメージ」、「情景」といったものは「幻想」のカテゴリーに属すると言える。

 そこまで考えてふと疑問がわく。すなわちこれら「幻想」に対立するものが何なのかについて。このMVでCGの側に割り振られているのは、音楽を奏でている仁菜たちだ。さきほど彼女たちには「今」しかないと書いた。けれどもそのCGで表現される「今」は、本当に、いわゆる「現実」と対応しているだろうか? その「今」は、はたして過去に対立する「現在」だろうか?

 音楽を奏でる彼女たちは、日常における「今」とか「現実」と呼ばれるなにかを越えたもっと深いところにあるナニカに、触れていないか。

 それがなにかはわからない。けれども仁菜は言う、手をのばし満ち足りた表情でまちがっていないと。その言葉は、そのナニカにたしかに触れたことを意味しているような気もする。


(※)写真はここでは除いている。ここで問題にしているのは、あくまで動いているものについての<二次元⇔CG>という差異だからだ。

(※2)MVを通して、二次元とCGの境界はおおむね保たれている。二次元とCGが同時に映りこむことはあっても、ある対象が、その対象であるままに突然CGから二次元に切り替わったり、その逆が起こったりはしない。そんななかで、ルパが両親の墓前に供えた花の花びらがライブ会場に舞い込んでくるという演出は目を引く。この花びらは、ショットが切り替わることもないまま、シームレスに二次元からCGに移行してくる。ここでは二次元からCGへの表現媒体の横断が起こっている。これは二次元がCGに侵入してくるという一種ファンタジーな演出だ。
 「イメージ」としての二次元(花びら)がCGという「現実」に入り込んでくるというこの構図は、現実を侵すほどの熱量を彼女たちの「歌」が持っているためだととらえることもできる
かもしれない。すくなくとも、CGの世界に舞い込んでくるこの花びらは、「イメージ」と「現実」の境界線を破るもの、乗り越えるものとしてあるように思える(もっとも、こうやって二次元からCGへと切り替わること自体を、単純にカッコイイというかオシャレだと感じる節もあるし、ルパの亡くなった家族のかわりに花びらが登場しているというのも、それはそれでエモいのだけれど)。

他のガールズバンドクライのページは次にまとめてあります。書き方にバラつきがありますが、よければ。

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