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考えるとは自分をだまし自分にだまされること

考えることは、だますことだろう
話し相手を説得しだますように
自分自身を説得しだましている
自分とは零番目の話し相手だ

だますことと同時に、そのだまされたことに気づくことによっても、考えは進む。自分のなかでのだましたりだまされたり。これが考えることの過程だ。

それは、どこか罠を張り巡らす作業に近いかもしれない。ほかでもない、自分自身、未来の自分自身にたいする罠
考えることは、過去の自分自身や未来の自分自身を相手にして行われる駆け引きだ

とはいえ、事態は複雑だ。単純に<だまし⇔だまされ>に区別できるわけでもない
たとえば、今ある考えを進めるために、「ひとまずこの部分まではだまされておこう」としたりする
まるきりだまされるのではなく、利用するためにウソの一部をホントウと受け取っておく

「考える」とは、ホントウを求める以上に、ホントウとウソをどうやって配置するかについての気配りの作業だろう
「ホントウを求める」というのも、数多くあるうちのひとつの方針にすぎない
「ホントウを求めない」考えだって、ありうるし
実際「ホントウを求めない」で進められる考えのほうが実はずっと多いかもしれない
今自分は「ホントウを求めている」と未来の自分をだまして、考えを進めたことのない人がいるだろうか

けれども、未来の自分を罠にかけようとしているだけではない
その罠に気づいてほしいという面もあるにはある

その罠は、自分でつくったものでありながら、その罠に自分自身はまりこむことが、考えを進めるためには必要だ
こうやってだまされることによって考えが進む面は否定できない
罠を張り巡らせたからには、その罠に自分自身もはまりこまなければならないということ
自分自身を生贄にすること

罠にはまった自分自身を未来に託すこと、そうして、罠を見破り救ってもらおうとすることが、考えることなのだろうかと考えてみる
こう書いたせいで、むしろ思考は複雑になり、考えなければならないことが増え、それらをつなぎとめておくために費やさなければならない言葉も増えていく。一言で言えばわかりにくくなる

できるだけ単純に、つまり余白を増やしていくことが考えることの一側面なのは確かだろう
そうして余白を増やしていくことで、しだいに、ある程度くっきりとした明白な考えが像を結んでくれるのもまちがいない
けれどもこの場合における余白は、一種のウソの結果であり、罠だ

余白とは、思考のだました、だまされたすべてが沈んでいく場所
あなたが自分の考えをその余白の上に描いているあいだ、この余白はあなたをうかがいつづけている。一方ではだまされるあなたを。他方ではだますあなたを

あなたのだました、だまされたすべてが、思考の余白としてあなたを見ている
それらに自分をかけて、見破らせようとすることもまた考えることだと考えてみようとする
余白という底なしの白濁に思考をさらす


読んでくれて、ありがとう。

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