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【エッセイ】時間に逆らうほどの速さで

光の速さに近づくほどに時間の進みが遅くなるのは、速さが、時間に逆らおうとする動きそのものだからだ。1時間かかって着くところ半時間で到着した場合、私たちは速さによって半時間分、時間を遡っている。

速ければ速いほど、私たちは時間を逆行する。光の速さにあるとき、世界より時間の進みが遅くなるというより、速すぎて時間を戻ってしまうと言うべきだ。

何かを思い出すとは、そんなふうな速さが、極まったところで起こる現象だ。それは、時間に逆らうほどの速度に心が置かれることで引き起こされる出来事なのだ。

仮定にすぎないことを承知の上で、心にそんな速度をもたらすものは何なのかと考えてみる。
なにかを思い出すのは、その思い出におさまっているなんらかの感覚とよく似た感覚を経験したときだろう。
あるいは、それに関連する言葉を聞いたとき。そこに感情はあるかというと、実を言うとない、と思う。
感情は、いつもその経験のあと、つまりその速度が終わったあとに、やってくるからだ。

なにがきっかけでこの速度は起こっているのだろう。
戻って言えば、それは似た感覚、たとえば味とか匂いとかだったり、あるいは言葉、そのときのことを喚起するちょっとしたエピソードだったり。
大まかに2つ提示してみたものの、じつを言えばこの二つは、思い出し方としてはすこし違うものだ。
味や匂いは突然にその思い出に突然に連れていく。
たいして言葉はそれと比べるとじわじわゆっくりと、その思い出へ導いていく。いわば速度が違うのだ。
ロケットの打ち上げと、飛行機の離陸みたいな違いだろうか?

なにがきっかけでこの速度は起こるのだろう。気づけば、私たちは思い出に浸っている。その一瞬に起こった出来事に人はあまり興味を抱かない。それよりはその思い出に至った理由と、そこからおこる感情のほうが大事なのだ。

ある種の詩がとらえているのは、この思い出への移動の一瞬に起こるなにか、そのきっかけそのものなのかもしれないとふと思う。この過去へ遡るほどの超速度、それ自体の手触りに触れようとしている。

それはきっと、速度の結果ではなくて、原因でもなくて、速度をもたらす力そのものなのだろう。言い換えるとそれは想像する力かもしれない。

考えてみると、(繰り返しになるかもしれないけれど)私たちは日常、想像力そのものにはあまり注意を払わない。想像力の結果やその手前にばかりに目をやりがちだ。感情は、その結果や手前に結びつけることで、はじめて「自分自身の」感情のように感じられるから。

詩はその超速度そのものだ。と言うことはできない。
それは言葉である以上その痕跡、あるいはそれへの思慕とまでしか言えない。いや、ひょっとするとそれも正しくないかもしれない。
なぜならそれは、私たちを思い出を置き去りにするほど遠い彼方まで連れ去ることもあるからだ。
そんなことが起こるのは、詩が完璧なのではなく、むしろ不完全だからだろう。あるいは、私たちと目の前の詩と、二つの不完全が重なり合うとき、そんなエラーが起こるのだろう。


読んでくれて、ありがとう。

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