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【完】刹那的たまゆらエセー

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後から推測するところ、この断片たちの主なテーマは、信じること、忘れること/ 裏テーマとして「なにかを創るとはいったいどういうことなのか」/ 最初に問題設定があったわけではなく、書…
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2024年8月の記事一覧

コドク

たとえば。お蕎麦をすすりながら流れ星のことを考えているとき 自由を感じる。孤独とともに。 流れ星とお蕎麦に引き裂かれて、はじまる孤独 ひとつの時間が二重になって、二つに引き裂かれた瞬間の出会わなさが、自由の可能性 * 自由の可能性が襲いかかってくるとき あなたは孤独になる 自分もその可能性の一部にすぎないと思うとき、さらに孤独は深まる 孤独とは出会いだ。ただし出会わずに出会うこと。なぜなら出会いとは隔たりを感じることにほかならないから * お蕎麦を味わいながらこれを流

考えるとは自分をだまし自分にだまされること

考えることは、だますことだろう 話し相手を説得しだますように 自分自身を説得しだましている 自分とは零番目の話し相手だ * だますことと同時に、そのだまされたことに気づくことによっても、考えは進む。自分のなかでのだましたりだまされたり。これが考えることの過程だ。 * それは、どこか罠を張り巡らす作業に近いかもしれない。ほかでもない、自分自身、未来の自分自身にたいする罠 考えることは、過去の自分自身や未来の自分自身を相手にして行われる駆け引きだ * とはいえ、事態は

いつだってさよならのやり方を知らない

私たちはいつだってさよならのやり方を知らない * なぜなら、さよならがさよならであるためになにが必要なのか、私たちは知らないからだ * その言葉を放った瞬間から、新しい出会いが始まるようでさえある。その出会いを、人は思い出と名づけた * 「思い出す」という営みは、いつも別の「さよなら」を探す試みと、一緒に起こる 思い出のそばではいつも、数えきれない「さよなら」が、その出会いをそっと見ている 私たちと思い出の出会いに、影のように寄り添って * 思い出を撫でた、あ

ありえたかもしれない世界に共感すること

ある違和感が傷みに変わっていく感覚は、痛みの感覚それ自体よりも恐ろしいと思う 死そのものではなく、死に近づいていくことのほうが恐ろしいのと同じに * ある違和感が痛みに変わっていくとき 死が近づいてくるのを感じるとき それらのときに、私たちを駆け巡るのは、そこに至ったまでの道程であり、それ以上に「もしあそこでこうしていたら、こうしていなかったら」といった可能性だろう * ぼんやりとしていたものが、あるくっきりとした感覚や思考に置き変わっていくとき そのとき、人はこうい

波の音には水平線が響いてる

空と海の接しているかに見えるところに名前をつける こうやって名前をつけることは思考のはじまりにちがいない なぜならあの線は、欺かれた感覚の中にしか存在しないからだ * 思考とは、欺かれた感覚を言葉で肯定することで、自分をふくめた世界のすべてを欺こうとすること だから思考を伸ばしていくことは、それを支えにして、なにもわからないでいようとしているようでもある * 考えることは怖い。そして恥ずかしい どれだけ正しく進めたとしても、この最初にあった欺きからは逃げられないから

水平線に耳を澄ませる

私たちは自分に引き戻されるのをたえず恐れている それは常に自分の死について考えること、すくなくとも、その思考の果てに死が待っているような思考だからだ * もしもなんてない。可能性などない。わたしはいつだって墓場だ。あらゆる可能性の漂着する死の浜辺だ。 * その残骸たちで遊んでいる。心を痛ませながら、愛の輪郭をたしかめながら。 * ガラクタたちと一緒に浜辺に寝そべってみることだ。波の音に澄ませた耳で、自分自身を散り散りにしながら。 * 世界は二つ以上のガラクタを

合わせ鏡のなかの未来

「私」という出来事は合わせ鏡に似ている 合わせ鏡のあいだに挟まれば、そこでは無数の自分が背中と顔を合わせている 不思議でかつ不気味な光景。 * この不気味さはどこにあるのか ひとつには、どこまでも自分が続いていること、その整然とした感じが怖ろしい もうひとつには、この連鎖がどこかで途切れているのではないかというのが怖ろしい * この自分はこの連鎖のひとつにすぎないのか 自分が手をあげれば「私」たちは一斉に手をあげる 手をあげたのは本当に自分の意志なのか。鏡の隙間のどこ

似ていること=可能性の化ケモノ

「似ていること」は似ているとされた二つが、「同じでもなくかといって違うわけでもない」ことを意味する それは「同じでありかつ違う」ということと区別がつかないかのように見える * 「似ていること」は同じであることと違うこと、どちらとも似ていて、どちらとも似ていない 「似ていること」が同じであることとも異質で、違うこととも異質である、と言うとき、それは、このような意味においてだ 「似ている」ことの理由づけは、「同じでありかつ違うから」、かつ、「同じではなく違うのでもないから」で

重力の声のゆくえ

あなたを引くこの重力は、あなたを選び取った重力であり、あなたが選び取った重力でもある * それはいつもあなたを、あなた自身よりも高いと同時に低い場所にとどめておく 昔どこかでやっていたなにかの実験で、あなたがそういうことをしたように * 試すように体の、心の、節々に重みをかけながら重力は、居心地の良い場所を探してる 人はその結果重力のたどりついた場所を重心と呼ぶけれど、いつだって重力はそこから逃げ出したがっているのだ。重みのはじまり。心のはじまり * 二人とも逃げ

あなただけの / わたし

自分は傷つけることによってしか真実を書くことができないと知ったとき、自分以外の誰かを知った。 * 誰かの心に痛みとして食い入っていくのも、きっと間違いではないが、どこかでこんなはずではなかったと思うだろう、あなたかわたしのどちらかが。あるいはどちらもが。 * あなたが誰であろうとも、あなたがなにかを表現するとき、それはいつもわたしの限界をあらわしている。 * 限界とは、わたしの可能性の極と今あるわたしの極が限りなく近づき逸れていく力場のことだ。 * 限界とは、

夢にめざめていたくて

あなたは自分の夢を知らない。 * あなたの夢は絶対に叶う。けれどもそれはあなたの信じていた夢ではない。あなたの無意識の信じていた夢だ。 * 夢から覚めるほどあなたは夢を生きることになる。夢を見ることと夢を生きることの隔たりを溶かすには、めざめるしかない。 * めざめたときには確かに、夢の残り香とでも言うべきなにかが、鼻の奥にわだかまっている。それが続いているあいだだけにしかない、もの悲しい充実感があり、それとつながっているあいだだけ、生きている自分がある。 *

人形遣いと人形と

Mは行動することをあまりに美しく思い描きすぎた。ただ見ていることが美しくなってしまうほど。その見ているだけを憎んでいたはずなのに。 * Mは自分が憎んでいるもののなかに、自分のもっとも美しい部分と似たなにかがあることに気づかなかったのだ。 * 気づかないことそれ自体が生んだ美しさについて、昔Kがなにか言っていたっけ。「私は人形になりたいんだ」とKは言ったはずだ。じゃあ人形遣いが必要だねと言ってみると、Kは「その遣い手に気づかないでいたいんだ」と返した。 * MとK

世界を置きざりにした私たちへ

たった一点に向けられた否定が、気づくことのできない奥深い部分まで否定する。 * それと逆に何気ない肯定が気づかない深いところを認めていることもある。 * あなたの引いた直線の下には、いつも無数の別の直線が眠っている。 * そのどれか一本が誰かの中でめざめるとき、あなたはその直線を引いたことになるだろう。 * あなたの手の動きに世界はいつも置いていかれているが、それはこんなふうな形でだ。 * いつどんな世界があなたに追いつくかはわからない。 * 永遠に世

水のような時間への憧れ

川にも海にも憧れる。これは水にたいする二つの違う憧れ。 * 己の感性が説明的なことが嫌なわけじゃない。だけどもっと驚いていたい、戸惑っていたいという思いの兆すことはある。その驚きを失うことでしか、感じることができないらしい。 * なにかに共感したり感情移入したりするのが怖いと思うときがある。あまりにもその対象が強大すぎるとき。それに臨む「私」以上に、「私」であるとき。ちょっとでも共感すると自分がその対象に取り込まれて一部になってしまう。その大河の流れに呑み込まれてしま