忘却、という美しいこと
詳細の記載は避けるけれども、長年PTSDと一緒に暮らしている、とおもう。たぶん。
「オープンでいる。嘘をつかない。」
という姿勢を心掛けているものの、
誰にも言いたくないことが心の中にはたくさんある。
許せない、とおもうようなことは、
すでにほとんどなくなっていて、
嵐のように訪れる記憶と感情の再生に黙って耐える、
という日常をほどほど怠惰にやり過ごしている。
記憶というものが、
わがままをいう、幼い子どものような存在になりつつある。
何度も、何度も、繰り返しおなじ記憶をあやしていると、
時間と共に、それらは、穏やかになっていくようで。
辛かったことは、辛くなくなっていき、
こわかったことも、こわくなくなっていった。
ひとつ、ひとつ、
だまって受け入れることくらいしか、できることはない。
涙を流すこと、
眠ること、
踊ること、
絵を描くこと、
言葉を綴ること、
誰かと一緒に笑うこと、
穏やかな冗談を言い合うこと。
記憶に触れてしまうことが多くなってしまって、
映画も小説も、ほとんど楽しめなくなってしまったのだけれども、
少しずつ、それらも、回復してきている。
映画を観て、小説を読んで、
よかったと思えることが、
わたしを安心させている。
回復を実感できるから、だ。
あんなに好きだったフィクションが苦手になった代わりに、
実用書を読むことが増えた。
どこか別の世界に逃げ込みたいと思わなくなった。
これは、結果、オーライなのかもしれない。
リアルなものを愛せるようになった、
と考えることもできる、かもしれない。
確かなものなどない、とおもうことは、
不思議と安定を与えてくれるようになっている、気がする。
確かなもの、は、安心と同時に不安を与える。
壊れるのが、こわくなる。
不確かな曖昧性の中に、安全を見出そうとしている、わたしがいる。
ゆるやかな、安心と安定を望んでいる。
なぎの海のような、穏やかな日常を。
死も老いも、さほどこわくなくなってしまった。
キラキラと眩しいものに、憧れなくなってしまった。
それが、良いのか悪いのか、
すらわからないけれども、
それでも、
少しずつ、
心がここにあることを実感できるようになった。
「好き、ごめんね、ありがとう。」
は、魔法の言葉だとおもう。
どんな、でもいい。
得るとか、ないとか、逃げるとか、負けとか、
そういうのは、なにも心を動かしてはくれない。
それらは、けして、
「生きている」という前提を崩すようなものでは、ないのだから。
息をしていれば、どうやら良いことがあるということを知った。
誰も恨まず、
妬まず、
怒らなければ、
優しい人たちが近くにいてくれるということを知った。
希望を失わなければ、
絶望はやってこないということを知った。
ほとんどわたしは死んでしまっているのに、
どうして息をしているのだろう、と思っていた。
笑って、ごまかしている、わたしは、
一体、誰なのだろう、と思っていた。
いつのまにか、笑うことに罪悪感がなくなった。
この感情は、嘘でも演技でもない、と、
今は、感じられるから。
時と、睡眠が、大概のことは、癒してくれる。
時が、経てば、大概の記憶は薄れていく。
誰かと一緒にごはんを食べながら、
笑っていられるときが、
いちばんしあわせを感じられる。
きっと、時だけが、癒せるものも、あるようで。
忘却を愛せるようになった。
それは、人に与えられた、
もっとも美しいもののひとつだと、わたしはおもう。