わかりやすさ、を、おもうこと
「田舎のねずみと都会のねずみ」というおとぎ話をふと思い出す。
" 田舎に住んでいる一匹のネズミが、御馳走を振る舞おうと仲の良い町のネズミを招待する。二匹は土くれだった畑へ行き、麦やトウモロコシ、大根を引っこ抜いて食べていたのだが、都会のネズミは田舎の暮らしが退屈だと言い、都会へ誘う。「珍しいものが腹一杯食べられるよ。」と。
田舎のネズミは二つ返事で都会へと向かった。パンやチーズ、肉といった見た事も無い御馳走を田舎のネズミに見せた。めくるめく御馳走を前に田舎のネズミはお礼を述べ、食べようとするものの、家主であるにんげんやねこに邪魔されるため、落ち着いて食べられない。
田舎のネズミは、急いで帰り支度を整えて「こんなに素晴らしい御馳走を用意してもらってすまないんだけど、こんなに危険が多いのは御免だね。僕には土くれだった畑で食べている方が性に合ってる。あそこならば、安全で怖いこともなく暮らせるからね。」と言って帰っていく。"
〜あらすじより抜粋引用
"幸せは人それぞれで、満足できる形や安心できる場所は異なる"という教訓が描かれている、イソップらしい物語。
昨今の日本でも、同じような場面に遭遇することがある。
都会の快適さと田舎の快適さ。そして、それぞれの不便さ。
比較する必要性が生じることはあれど、ポジションをとる必要性はない。
どちらも快適でどちらも不便だ。
人は、「選ぶ」という行為に理由を聞きたがる。
聞きたがる人がいるから、それらしい理由を述べる。
だけれども、本心というものには、それらしい理由などないことも、
ままあるものだったりする。
「選ぶ」という行為が苦手な人に対して、
わかりやすくポジション表記をつけることを
「マーケティング」という分野のなかのひとつの手法として、紹介されることがある。
「にんげんの行動心理に基づく、脳機能科学に即した、極めて有効な手立てである。」と。
ひとをばかにするにも、ほどがあることをいうものだ、と、わたしはおもう。
学歴だとか、あたまのよしあし、スポーツの結果論、仕事の業績、有名企業との関係性、いくらお金を持っているか、見た目がどれだけキレイだとか、家柄がどうであるだとか。そういうあれこれで、ポジションを取り合うために、わたしたちは生きているわけではないだろう。
好きなひと、居心地が良い人を探すために、そういうものでフィルターをかけていく必要性があるのだろうか?だとすれば、そのフィルターそのものに問題と欠陥が大いにある、と、おもってしまう。
それは、心の病であり、知性の欠如である、と。
物事を理解するために、フィルタリングに頼らねば、判断と選択をできないほど、ひとは、脆弱ではないはずである。
誰かの選択に対して、一喜一憂する理由はない。
自分の選択を誰かと比較する理由もない。
理由を聞かれるのと同じくらいに、それらには、理由がない。
わかりやすさとは、とても不便なもの、でも、ある。
好きもきらいも、ありとあらゆる選択も、流動性のあるものだから、それに対して、責任を求めることは、残酷性を伴うということを、
なまえも地位も責任もないわたしたちは、
忘れずに判断をしなくてはならない、と、
ふと、おもったりした。