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40代を見据えて

「40歳を目途にこんな風にしたい」とよく漠然と友達と話すことがある。
現在38歳、年が明けてふと『あと2年じゃなくて1年半じゃん…』と気づいてしまった。
一年の真ん中で歳を取るのでW杯のせいで時間軸の感覚が狂った節あり。
それはさておいて、その理想に向けて逆算するともっと焦らないといけないタイミングまで来ている。
最初から『41歳の誕生日前日まではセーフ』なんて逃げ道を作らずに最善を尽くしていたい。

30歳になる数ヶ月前までは両親と同居で在宅生活をしていた。
親子共々まだ若くて体力もあったので色々な場所に連れて行ってもらったし、家族の力だけでそれが成立していた。
今になって思うとあまりにも自由奔放だったので反省する気持ちがあるが、それまでを否定することもちょっと違うし、素直に素晴らしい時間だったと感謝したい。
2011年の震災の時、被害という被害はなかったが、SNSで全国の仲間に心配され、人工呼吸器の電力を求めて今いる病院に助けてもらったことで自分の中の意識が変わった。
『一人では生きていけない、家族の力にも限界がある、もっと素直に人に頼ってもいいんじゃないか』と。

アラサーに差し掛かり、『今の生活をあとどれぐらい続けられるのか…次のフェーズに向かわないとな…』という思いから、自分なりの"備え"の行動を始めた。
まずは毎月の通院をヘルパーに手伝ってもらうことにして、次は入浴介助の方法を模索したり、少しずつ家族の負担を減らしていこうと思っていた。
一つの選択肢として病院にも慣れておこう、両親に休んでもらったり旅行に行ってもらおうということで、時々レスパイト(短期)入院もするように。
ところが母の病気のために長期入院での療養生活を余儀なくされることに。
ただ、結局ヘルパーを入れた新しい生活スタイルの構築は間に合わなかったものの、入院にスムーズに移行できたのは自分の備えの行動をポジティブに捉えたい。

筋ジストロフィー病棟での療養生活に入るということは、同じ病気の仲間と(かつての後輩や年の離れた先輩たち)関わるということで。
別に拒絶していた訳ではないが、ネットのおかげもあって友達はそれなりにいたし、わざわざ筋ジスの人との付き合いがなくともさして困ることはそれまでなかった。
でも自分が使っている道具や知っている情報が誰かにとって有益だったり、なるほどーと逆も然りみたいなことも少なくなく、『こういうのはてみんなでシェアしていった方が絶対いいじゃん』と思うようになった。
そしてゆるい病院の方針もあって、自己責任と信頼関係を前提として気心の知れたスタッフとの外出を認められていたので、家族に頼らなくても遊びに行けるようになったことも大きかった。
30歳までに~という理想通りにはいかない部分もあったが、強制的に環境を変えざるを得ない流れを経て、フタを開けてみたらプラスに働く要素の方が圧倒的に多かったから人生は面白い。

このnoteの最初の投稿に戻るが、気管切開の決断を迫られたのとほぼ同時にコロナ禍に入ってもうすぐ丸3年。
誰のせいでもないが、まだわずかな時間の面会が許されているる程度でまだまだ外出すらままならない状況。
不要不急とは何ぞや?である…平時であれば転院が必要な手術も今ようやく見通しが立ってきた車椅子作りも恐らく1年もあれば終わっていた案件。
時間は有限であり、この3年でだいぶ病状が進んでしまったことに危機感を覚えずにはいられないい。
リモートを最大活用してはいるが、まだまだ"リアルで"を実現できる余地が自分に残されているのなら、トライしてみたい気持ちが大きい。

なりたい40代になりたいのなら何かを捨てる勇気が必要なのではないかと、最近すごく感じている。
今年はよりビジョンを持ってギアを入れて過ごしていきたいと思っている。
これを読んでくれている人たちとこの先もっと楽しむために。

つまり、自立生活の道をまだ捨ててないよってこと。

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