本当にシャニアニは二期の方が面白いのか、という話
まず結論から言おう。
視聴者全体の平均値、総合的な評価という意味では間違いなく二期の方に軍配が上がる。
端的に換言すれば、二期の方がおもれぇ。これにて格付け完了である。
しかし、だ。
一期が山岡さんの鮎かと言われると正直疑問符が付く(現在Twitterではこの表現が流行っている)。
確かに二期の方がエンタメとして面白い。それは間違いない。だが、物語の構造的に面白いのは一期ではないだろうか。
つまり、シャニマスらしさ(=地元の味)という意味では二期の方が山岡さんの鮎ではないかと思えてならないのだ。
メタファなどの使い方が上手くコンセプトが綺麗に出ているのが一期で、純粋な物語として面白く盛り上げ方が上手いのが二期と言えば良いだろうか。
一応、すれ違いがないように最初に触れておくが、ここで言うコンセプトとは一期を通して一年間の年表を作ろうとしていた、という話ではない。
一期におけるコンセプトとメタファ
12話全ての解釈を書くのは流石に長すぎる。更に言えば、ライブ中心の回はコンセプトやメタファについて特筆することは正直ない(これは二期も同様)。
そのため、この記事ではユニット回である2~4話。およびシャイニーカラーズの命名回である10話に限定して解説しようと思う。
イルミネのユニット回である5話について言及しないのは、あの回がLight up the illuminationをベースにしているからである(半分以上はenza版への言及になってしまうため)。
2話/L'Antica
ユニット回では、その回を担当するユニットがどのような色を持っているのか、つまりはどのようなユニットなのかがストーリーを通して提示されている。
アンティーカ回である2話では、MVという劇中劇や灯りというメタファ、楽曲のモチーフに絡めてそれが表現されている。
創作物に登場するお話は登場人物や彼らの置かれている状況の写し鏡であったり、あるいはその先の展開を示唆するような、いわゆるメタファのような働きをするものが多いわけだが、2話で登場するMVという名の劇中劇もこの例に漏れず2話のストーリーと重なるような構造になっている。
やりたいことがあるはずなのにそれができない城の住人の心に恋鐘ことレジスタンスが火を付けた結果、心の裡に秘めた想いを解放できるようになる(やりたいことをできるようになる)というMVのストーリー。
これは最後まで撮影をしたいがそれを口にできないアンティーカの面々が、恋鐘の言葉によって撮影を続行したいと表明できるようになるという2話終盤の流れと綺麗に重なっている。
だからなんだと思うかもしれないが、ここで重要なのは恋鐘が「お客さんだってうちらのウタで熱くなってくれとるばい」「そげん熱かもんがアンティーカのウタじゃなか」と言ったことだ。
恋鐘はアンティーカのウタを熱いものだと表現したわけだが、MVやバベルシティ・グレイスの歌詞ではそれを火に例えている。
恋鐘の役がただのレジスタンスではなく、みんなのハートにウタで火を付けるレジスタンスだと表現されているのはこれが理由だろう。
故に、アンティーカのウタにある"熱いもの"は炎である、と言ってしまっても良いと考えられる。
2話のサブタイトルに『ウタという炎』とあるように、この回では炎がウタのメタファになっているわけだ。
加えて、レジスタンスの火を付ける対象がハートであることから、炎とは胸に灯る熱い想いのメタファでもあることがわかる(歌詞に準えて表現するなら、孤独に冷えたハートをウタというFlameでIgniteさせるわけだ)。
だからこそ、高宮監督に直談判しに行くシーンは非常に象徴的な意味を持っているのだ。
大前提としてあのシーンは停電中の出来事だ。つまり室内照明は機能していない。
だが、このシーンになると突如オレンジのライト(↓こんな感じのやつ)が出現する。それも画面の中央にデカデカと。
これは「停電中にライトの一つも準備しないはずがない」という物語を補完する描写とも取れるが、どちらかと言えば2話において炎が重要だからこその描写だと言えるだろう。
この演出で重要なのはアンティーカには正面からランプの光が当たっているが、監督はライトに背を向けているという構図になっていること。
彼女達の熱い想いを胸に灯る炎と形容するのなら、これほどわかりやすい描写はない。
だからこそ、監督が撮影を了承し振り返るシーンでは彼に正面からライトの光が当たるのだ。
つまるところが、撮影を諦めていた摩美々達(城の住人)が恋鐘(レジスタンス)の言葉よって心に火を灯されたように、アンティーカの想いが伝播し(心に火が灯り)彼の本音が顔を出したわけだ。
これだけでも充分に綺麗な構成なわけだが、2話にはMVや炎以外に面白い役割を持ったものがもう一つ存在する。
それは監督の「わかるな」という言葉だ。
監督はアンティーカと出会った際に「その君達らしさ。今この瞬間の輝き。俺が収めてやる。わかるな」という趣旨のセリフを口にしている。
これと同じ内容のセリフが撮影を再開する際にもあるのだが、面白いのはこの二つのシーンで言われた側のアンティーカの反応が180度違う点だ。
この初めは理解できていなかったが最後に理解できるという劇的ビフォーアフターな描写があることで、この回を通してアンティーカが自分達の色(輝き)を見つけたということがわかるわけだ。
このことは、バベルシティ・グレイスのモチーフであるバベルの塔の物語からもわかる。
共通言語が失われてしまい、お互いの思いを正しく伝えることができないこの世界において、監督の言いたいことが詳しい説明もなしに伝わったのは、アンティーカが自分達の輝きがどのようなものかを理解しているから、といったように。
一期はこういった各ユニットらしい要素をストーリーに絡めるのがとても上手い。これこそが私の考える構造的な面白さである。
3話/ALSTROEMERIA
3話の概要としては、『未来への憧れ』というアルストロメリアの花言葉を冠する彼女達がどのようなユニットになりたいのか見つけるというもの。
それを通して『会場に笑顔を咲かせる』『未来への憧れを胸に抱く』の二点が提示される。
3話を通してアルストロメリアは『笑顔の花を咲かせたい』という目標を定めるわけだが、作中でシャニPが言及しているように、物語中盤までの彼女達はそれを言語化できていない。
そのことを上手く描写しているのが、フラワーフェスが始まる前、千雪から甜花、甜花から甘奈へとブライダルベールを手渡しするシーンだ。
このシーンにて、甘奈は花を見つめながら「お客さんを笑顔にしたい」と発言する。
後のライブシーンにて「みんなの笑顔もお花に見えて」という発言があるからこそ、この描写は彼女が『笑顔の花を咲かせたい』という想いを既に持っていることを示しているのがわかる。
メタファという間接的な表現を使うことで、甘奈の言語化できていないだけで答えは既に自分の中にあるという状況をうまく描写しているわけだ。
花というアルストロメリアにとって重要なモチーフをメタファとして扱いつつ、物語的の展開にも上手く絡めている。綺麗なメタファの使い方と言って差し支えないだろう。
それだけではなく、この描写はアンティーカの「わかるな」と同様に終盤のシーンとの対比にもなっている。
フラワーフェスの帰り道、甘奈はシャニPの「自分の想いを自覚できていないだけ」という過去の意見を肯定した後、花が咲いている花壇に駆け寄り「お花、咲かせようね」と発言する。
あの時と同じ、花を見つめて未来への展望を口にするというシーンなわけだが、決定的に違うところがある。
それは甘奈が自分の想いを自覚できていることである。
フラワーフェスでの姉弟とのやりとりと、それを見ていた甜花の「花が咲いたように笑顔になっていた」という言葉から、甘奈は既に笑顔の花を咲かせたいという未来への憧れを見つけている。
だからこそ、この帰り道のシーンは踏襲というよりも対比なのだ。
そして、この対比でフラワーフェスの前後を挟んでいるからこそ、フラワーフェスを通してアルストロメリアが自分達の色を見付けた、ということがわかるという構成になっているわけだ。
4話/HO-KA-GO CLIMAX GIRLS
この回は2話や3話に比べるとびっくりするほどにストレート。正直わざわざ説明しなくても良いレベル。
とはいえ、それが悪いということは決してなくて。むしろシンプルだからこその綺麗にまとまっていたように感じた。
この回ではヒーローショーを通して『ヒーロー』と『巻き込む力』という色が示されていた(放クラの色が『巻き込む力』ってのに疑問を持つ人もいるかもしれないが、一応公式の紹介文にもファンもプロデューサーも世界も巻き込んでアイドル界のてっぺんを目指す!! ってあるのでね)。
ヒーローショーのストーリーは下に示す通りで、モリサゲールを倒せる=放クラの楽曲は観客を巻き込んで盛り上がる曲というのが伝わる構成になっている。
それに加えて、シャニPが終盤にて「大勢の人を巻き込んでいく力がある」と「それが放クラの色」だと言っていたように、トラブルに見舞われた際、これまで関わってきた人達が手を貸す描写があることで、二重の意味で『巻き込む力』を持っていることが伝わるわけだ。
10話/SHINY COLORS
最後にSpread the Wings!!の練習回でありシャイニーカラーズの命名回でもある10話について。この回は輝く色を通して彼女達の現在地とこれからが示唆される。
合宿最終日の夜、彼女達が各々のパーソナルカラーと近しい色の花火を持っているのは、シャイニーカラーズ(輝く色)の命名回で花火(輝く色)のシーンが描写がされるのは、手持ち花火が彼女達の輝きのメタファなのが理由だろう。
このことは花火で遊ぶ彼女達を見ているシャニPが「色とりどりの光、シャイニーカラーズ」というポエムを吐き出すことや、そのセリフで初めてシャイニーカラーズの名前が登場することからもわかる。
この色とりどりに輝く花火をアイドルの持つ輝きのメタファとするというシャニマスらしい描写は、そこに「花火大会に行けなかった」という話が挟まることで非常に象徴的な意味を持つことになる。
何故なら手持ち花火を彼女達の輝きだとするのなら、樹里の言ったようにこの場を「アタシ達だけの花火大会」だとするのなら、夏葉の「来年こそは花火大会に行こう」という趣旨のセリフは来年はもっと綺麗で大きな輝きをという意味を持つ。
つまり、この一連の流れは「今は小さな輝きだけど未来は~」という未来への展望を示しているのだ。
そのような描写がSpread the Wings!!という未来を想う曲の練習回の締めに置かれているわけで。
シャイニーカラーズの命名回という意味でも100点満点の描写だと思う。
また、10話には星というメタファも登場する。
打ち上げ花火を未来の輝きのメタファだと先述したが、この星というメタファもまたシャニアニにおいては花火と同様に未来のメタファである。
花火と星で違う部分があるとすれば、どちらかと言えば花火はシャイニーカラーズにとっての、星は真乃やイルミネにとってのメタファであるということだろう(これはあくまでシャニアニにおいてどちらが多いか、という話)。
例えば、1話では夜空に浮かぶトライアングルを見ながら灯織とめぐるが「輝ける存在になりたい」「私たちで一番輝くアイドルになっちゃお」と口にする。
そうでなくとも、真乃が未来について想う時は星を見上げているシーンが多い(これは二期においても共通する描写である)。
だからこそ、10話にて「みんなと一緒に頑張りたい」「みんなと一緒にステージを作りたい」とプールで独りごちる真乃は星を見上げるし、花火終わりに未来のステージを思い描く果穂は「きっとこの星くらいキラキラです」と表現するわけだ。
そして星が未来のメタファだからこそ、10話におけるこの二つのシーンでは未来を想う曲であるSpread the Wings!!を歌っているわけで。
総括
このように、一期では輝く色(花火/星)、物語、花、ヒーローショーと彼女たちらしいと言えるモチーフを上手く使い、それぞれのコンセプトを打ち出している。
特にユニット回は各ユニットの公式説明文にある要素をも綺麗に物語に落とし込んでいるのがわかる。
このように、シナリオ的に綺麗に意味の通ったメタファや彼女達らしいモチーフの扱い方がべらぼうに上手かったのがシャニアニ一期だと私は思う。
その上、コンセプトが明確で押さえるべき要点をしっかりと押さえているが故にそれらが非常にわかりやすい。
これこそがシャニアニ一期の優れている点であり、私が美しいと感じた部分だ。
一期と二期の比較
ここまで一期の優れている部分を説明してきたが、では、二期はどうだろうか。
面白い物語を提供するという意味で大成功しているのは間違いない。
物語には起伏があるし、感情描写もわかりやすい。その上新曲も多いので既存のユーザーでも飽きにくい。
一期のように『問題発生→提案→解決→すごいですーーー!』みたいな、入り口と出口が直結した会話は見当たらず、ドラマ性が薄かったり尺が余ったかのような虚無の時間も少ない。
だからこそ、観ていて純粋に面白いと感じられるのは間違いなく二期の方だろう。
だが、二期は驚くほどに構造的に面白い描写がない。
場合によっては「モノ」というメタファーが不在だと表現する人が現れるのではないかと思えるほどにメタファが見当たらないのだ。
当然だが、そういった描写が一ミリも存在しないと言っているわけではない。だが、一期のような美しい使い方がされているとは言い難いのが現状だ。
だからこそ、構造的に面白いのが一期でエンタメとして面白いのは二期だと思う。
物語の構造に奥行きがあるのが一期でストーリー展開の起伏が大きいのが二期と言ってもいい。どちらも高低差はあるがその性質が違うのだ。
故に私は一期と二期は評価軸が違う作品だと思う。面白さのベクトルが微妙に違うのだから。
もしかすると、ここまで読んでくださった方の中には「だからなんだよ」と思っている方もいるかもしれない。
実際、その感情は間違いではない。
メタファやそれに類するものは必ずしも読み解かないといけないものではない。あくまでメインである物語の添え物であり、性質としては小ネタのそれに近い。
だからこそ、そこまで目を向けて欲しいのなら物語的な面白さがあるべきだ。面白くないと感じたものを観続けようとは思わないし、例え観たとしてもわざわざ読み解こうとは思わないからだ。
しかし、だ。
一期に登場するそれらは複数の要素を絡めているのにも関わらず、描き方が綺麗かつ構成する要素がシャニマスらしいものであるため、割と流し見でも理解できるのだ(実際、この記事の一期に関する解釈のほとんどは上映直後にふせったーに投稿した内容の流用、つまりは1,2回しか観ていない状態での解釈である)。
だからこそ、そういった部分に触れず雑に腐すのは、一期にも光るものがあったはずなのにそれに目を向けないのは、ちょっと違うんじゃないかなぁと思ってしまうのだ。
最後に
以上が今回、記事を書いてまで言いたかったことになります(こっから先は敬体)。
私が今回このような記事を書いたのは、締めにあるように「光るものがあったはずなのに、それに目を向けずに雑に腐すのはどうなん?」ってな考えがあったからなのですが、実はそれだけではなくて。
シャニアニ一期の第三章が公開された直後、某インフルエンサーの一期はメタファーが不在だから面白くないという趣旨の記事が結構バズってたじゃないですか。その割に何故か二期の面白さについて語る際、誰もメタファの有無には触れてないんですよね……。
なんてーか、フェアじゃない。
だからこそ、誰も言及しないのであれば、と筆を取ったわけです。
フェアじゃないついでに一応言っておくと、一期と二期だと話数が全然違うので真面目に比較してどうこう言うのは流石にちょっと気が早かったりします(なので出来るだけ一章同士で比較しましたが)。
あと、自分は地上波版のシャニアニは数話しか観てねぇです。構造的に面白いとは言ったしそういうのが癖ではあるけれど、虚無い展開や会話を何度も観るのは正直キツい。二期は虚無いのが無くなってストーリーも面白くなったけど、何故か一期の構造的な巧みさとトレードオフになってしまったのが辛い。なんで片方しか選べないの、、?
以上! 終わり!! またね!!!