最近のシャニマスへの批判、そのやり口に対する所感
先日、283 Production LIVE Performance [liminal;marginal;eternal]ことLMEが開催された。その内容について、現在SNS上ではお気持ちが飛び交う事態になっている。
ただ、どうにも無理筋に感じる批判が多い。批判という目的を果たすためだけのものになっている、と言えばよいだろうか。
というか、LMEに限らず最近のシャニのライブ批判には割と無理筋な批判が多い。
今回はそういった批判に対し前々からもやもやとしていた感情を発散したいと思う。
故に、ここではLMEの是非や解釈について語ることはない。それは今回のライブに対して思うところがある人がやればいいことだ。
私の興味はそこにはない。だから別にこの記事を起点にして「LMEを批判するのは間違っている」と言いたいわけでもない。
ただ、批判のやり口が気に入らないというか、清く正しく殴ってもらわないと傍から見ているこっちの気分が悪くなるという話だ。ちなみに敬体と常体は書いてる時の気分で切り替わります。あらかじめご了承をば。
一公演しか見れなかった人や美琴のファンが可哀想
5th以降、この手の他人を叩き棒にする手法をよく見かける。
とはいえ、いきなり「特定の属性の人に対して事実かもわからないレッテルを貼り、勝手に可哀想な人認定し、擁護することで自分の目的(運営への批判)を達成している」なんて言っても説明不足になりかねない。
だからここでは、この手法に対して自分が感じている問題点を詳しく語ろうと思う。
主語とレッテル
そもそもこの手の主張は他人を慮るが故のものという性質上、当事者の主張であることは少ない。
そうした顔も知らぬ誰かを慮ることができるのは良いことだが、であるからこそ、ここには致命的な見落としが存在する。
当然の話だが、一公演しか見れなかった人や美琴のファンが必ずしも今回のライブに批判的なスタンスをとっているわけではない。これはどんなライブだろうと──ライブごとに感想に偏りはあるだろうが──賛否両論あるのが自然だからだ。
実際、noteやtwitterでLMEについて調べてみると同じ立場の人間でも正反対の意見を持っていることが見てとれる。
「何を当たり前のことを」と思うかもしれないが、そんな当たり前を無視し、さも当事者全員が否定的な意見を持っているかのように見せかけているのがこの手法だ。端的に言えば、この手法は主語がでかいのだ。
まぁ主語がでかいのはいい。そこは別に主題ではない。
問題はそれによってライブを楽しんだ人達の感想を捻じ曲げていること。つまりは楽しめなかった可哀想な人というレッテルを貼っていることだ。
そも「可哀想だろう」という批判は他人を慮るが故の憤りであり、ライブに来たからには多くの人に楽しんでもらいたいという想いの発露であるはずだ。
にも関わらず、楽しんだ人たちの気持ちを蔑ろにするなんてのは明らかに矛盾している。
特定の属性の人のためにという主張と、その中から自分の主張の助けとなる意見だけを抽出するという行為は相容れないのだ。だからこそ、傍から見れば批判という自らの目的を善人面のまま達成するために都合の良い叩き棒が必要だっただけに映る。
当然、見ている側としては良い気分にはなれない。口では誰かの感情を慮りながら、その実彼らの感情を踏み躙っているのだから。
代弁者である必要性
大前提として、当事者である彼らは物言わぬ存在というわけではない。だからこそtwitterやnoteに感想を投稿することも、公式のアンケートに思いの丈をぶちまけることだってできる。
であれば、当事者以外の人達が彼らに成り代わって声を上げる意味はどこにあるのだろう。
これが例えば、今回のライブで友人が悲しい思いをしていた。でもその人はSNSでそういった不満を漏らさない心優しい人だから自分が代わりに〜、といった話なら理解はできるし他人の気持ちを蔑ろにした理由にも説明がつく。身内とそれ以外では扱いが変わってしまうものだからだ。
だが、今回そういった主張を述べている人達のうち、どれだけの人がそういった納得できる事情があるのかという話である(邪推ではあるが、むしろ私はそのような背景がない人の方が多数派だとすら思っている)。
それに、そういった事情があったとしても、背景を理解ができるというだけで他の当事者の気持ちを踏み躙っているという事実は変わりない。
であれば、代弁者であることには尚更正当性がない。
別に正義の味方面で批判をするのが悪いわけではない。それならそれで最後まで正義の味方らしい振る舞いを心がけてほしいという話だ。
ここまで色々と書いたわけですが、これは批判を潰すためのものではなく、殴るならちゃんと殴ってほしいという記事です。なので私の主張の欠陥も一応書いておきます。フェアでありたいので。
ここまでの私の主張、これもある意味で「勝手にレッテル貼られた人が可哀想」とレッテルを貼っているようなものではあったりします。
にも関わらずこういった記事を投稿するのは、私が5th DAY1のみ現地勢だからです。つまり、誰とも知らぬ善人面のお優しい人達から勝手に可哀想な人認定をされ、最高に楽しかったという感想を穢された経験が私にはあるわけですね。
過去のこととはいえ、当事者である私としては、この手の主張にはそういった問題があることを知っておいてほしいのです。
今後、人命に関わるトラブルが発生した際に〜
今回のライブでは美琴がステージ上で倒れるという演出があった。
そういったライブにおけるトラブルを演出に組み込んだことにより、今後ライブで事故や災害などのトラブルが起こった際、演出だと勘違いしてしまい安全を確保できない可能性がある、というのがこの主張だ。
先程と同様、この主張も一見正しそうに見える。だが、この主張には核となる根拠がない。その上何故か悪い方向にだけ話がエスカレートしているのだ。
つまり、何故今回の件で実際の災害を演出だと勘違いしてしまうのかについての説明がされておらず、希望的な想定が一切ないのが不自然という話である。
いやまぁ、前例ができてしまったせいで〜というのが根拠なのだとは思う。だがそれでは映像作品中の出来事と現実の災害を同じもの(演出)だと勘違いしてしまう理由としては不十分だ。
確かに人が倒れることも災害も大別すればトラブルではある。スタッフが慌てるという状況が同じなのも間違いはない。
だからこそ「トラブル(美琴が倒れる)を演出に組み込んだことにより、今後トラブル(実際の災害)が起きた際に演出だと勘違いしてしまう」という主張も一見筋が通っているように見えなくもない。
だが前者が事前に用意された映像というフィクションの中でのキャラクターの転倒なのに対し、後者は現実での災害だ。
如何にスタッフの存在が演出に組み込まれていようと、ここには明らかな乖離がある。
二分によるミスリード
転倒と災害。確かにこれらはトラブルかトラブルでないかで言えばトラブルだ。その二つで二分するならそうなる。
だが、他人の転倒と災害ではトラブルのジャンルが違う。想定される被害も自分の身に降りかかる危険も、何もかもが違うのだ。
にも関わらず、ここではそういった差異を無視し、トラブルという大雑把なジャンルにだけ目を向け、それをまるで近しいもののように扱うことで結論を導いている。これは明らかなミスリードだ。
例えば、こういった問題があったとする。
当然ながらこの問いの解答は「成り立たない」である。
何故なら、この例においてAとBを繋ぐものはトラブルという一点だけであり、それ以外のものが不明瞭だからだ。ライブで起きたトラブルなら何でも無条件に演出と勘違いしてしまうわけではないという話である。
だからこそ、今後のライブにおける懸念点は「安全が確保できない可能性がある」ではなく「演者さんが倒れたとしても演出かどうかわからない」と表現した方が適切だろう。
ヒーローショーの危険性
というか、演出で似たようなものを見てしまうと〜という主張が罷り通るのであれば、暴力・誘拐・強盗、なんでもありのヒーローショーは非常に危険な催しであるという話になってしまう。
何故ならヒーローショーを見た人は今後リアルで似たような事態に直面した時、「あぁこれも演出かぁ」と思ってしまう危険があるからだ。
もちろんこれは誰が聞いても一笑に付するであろう荒唐無稽な例え話だ。しかし、ヒーローショーと実際の犯罪が今回の演出と現実の災害よりも近しいのも事実である。
では何故、条件が近いのにも関わらず我々はそれを演出だと誤認しないのか。それはヒーローショーがフィクションであると理解しているからだ。
そも、我々はxRライブが事前に用意された映像だということを、その中で起きる全ての出来事が予定調和であると知っている。
だからこそ如何に画面外でスタッフが慌てていようが、それが作中での出来事が起因であるのなら現実で起きたことだと勘違いすることはない。だって画面の中の存在は、美琴はこの世界に存在しないのだから。
今回のライブにおいてスタッフの行動が演出たり得たのは、それが映像というフィクションが起点だったから、つまりは現実だと勘違いすることのない下地があったからだ。
逆に言えば、今回の演出が全て画面外で行われているものであれば話は違っていたかもしれない。
フィクションであるのはあくまで画面の中だけであり、外側はその範疇ではない。だからこそ、演出とガチのトラブルを混同してしまうという懸念は多くの人が理解できるものであっただろう。
だが、今回のトラブルの起点は画面の中だった。つまりはスタッフの動きも含めて全てがフィクションという前提があったのだ。
スタッフが美琴の転倒を受けてざわついたとしても、「演出(茶番)だなぁ」とメタ的に捉えることができるのはそれが理由だ。
そしてこれはヒーローショーにも言えることだ。当然だが、ある程度の年齢であればヒーローショーがフィクションであるという認識がある。
だからこそ、ヒーローショーの演出を現実の物差しに使わない。つまりは演出だと誤認しないのだ。
まぁもちろん、ヒーローショーと実際の犯罪が同じ場所で行われることは稀だろう。故に犯罪に直面したとしてもヒーローショーに惑わされることはない。
だがライブは基本的に同じような場所で行われる。そういった意味では「演出と混同してしまう可能性がある」という指摘は正しいと言えるだろう。
とはいえ、先述したようにそれは似たようなトラブルの場合に限る。キャラクターの転倒と災害では、あまりにもジャンルが違いすぎる。
だからこそ、今後のライブにおける懸念点は「安全が確保できない可能性がある」ではなく「演者さんが倒れたとしても演出かどうかわからない」なのだ。
さて、ここまで来れば今後のライブでの安全がどうなのか、なんて言うまでもないだろう。生身の人間によるリアルタイムのパフォーマンスと事前収録のアニメーションを混同する根拠がない、という話である。
というかここまでの説明でだいぶ疲れたので言うまでもない、ということにしてくれると嬉しい。
論理の飛躍、途中の因果関係が不明瞭、滑り坂論法。こういった一言で終わるはずのものを、平易かつ簡潔に説明するのは結構大変と言いますか。公式の証明をしているような、そういうグロッキーな気分になっているので、、
大前提 ×3
大前提として、安全面を問題視するのであれば「今後のライブで〜」と不安を煽るだけでは片手落ちだろう。
人はネガティブな情報に惹かれやすいものである。せっかくその特性によって注目を得たのだから、ただ批判に終始するのではなくそれを有効に使った方が遥かに建設的だ。
例えば「私と同じ危機感を抱いた人がいるのなら、公式アンケートに対策を求めるよう書いてくれないか」と呼びかけるだけでも充分意味はあるだろう。
もっと大前提の話をするのなら、こういった懸念は先述したように「これは演出ではありません」とアナウンスすれば終いではないだろうか。
例えば総務省消防庁が昨年の9月に公開した『施設の防火・防災対策などに関する情報コンテンツ集』における『火災/地震発生時の例文』には「これは訓練ではありません」という文言が記載されている(75頁No.135および80頁No.174)。
これはつまり「これは本当の災害だ」という文言が、防災訓練と実際の災害という類似した状況ですら有効であるということだ。
であれば、という話である。
もっともっと大前提の話をするのなら、だ。そういった緊急時のマニュアルや例文が存在していないと考えている時点でこの懸念はかなり不自然である。
その上、安全面を問題視しているにも関わらず批判や不安を煽ることに終始し、具体的な対策を求めるための方策はない。
そういったあって然るべきなものが欠落している姿を見てしまうと、安全がどうこうってのは批判するための名目でしかないように見えてしまう。
つまり、傍から見ていてあんまり気分が良くないのです。
アンケートを書こう!
何故か知名度低いんですよねぇ、公式のアンケート。なので一応。
運営もtwitterやnoteは見ている。実際、そういう言及を何度かしている。
運営も公演をより良いものにしたいと考えているし、そのための意見を求めているのだ。だからtwitterやnoteに意見を書くのが無意味ってわけじゃない。何より自分の意見を誰かに発信するという行為には価値があるだろう。
とはいえ、ネット上の数多ある投稿の中から改善点を探し出すのは手間がかかる上に統計がとりづらく、何よりもその意見が本当にライブを見た人のものなのか判別できない。
だからこそ、運営はライブの度にアンケートを用意しているわけです。
このアンケートはログインしないと回答ができない。つまり、アカウントを辿ればその人が本当にライブを視聴していたのかを判別することができるわけで。
故に、このアンケートは運営と我々の双方にとってかなりのメリットがある代物なのです。
だからこそ、今回のライブに思うところがあるのならアンケートに書くのが一番建設的かつ効果的であると言えるでしょう。
もちろん、良かった点を伝えるのも良いでしょう。賛否両論あってこそ、ですから。
最後に
本当はもうちょっと色々書くつもりだったのだけれど、途中の部分で力尽きました。まぁおかげで普段の記事よりも文章量が抑えられたのでトントンな気はする。
色々と書いたが、こういった手法は自分も使っちゃうことがある。なので「汝は悪! 罪ありき!」したいわけではない。これは記事の最初にも書いたことだね。つまりは「お互い気をつけようね〜」という話である。
同時に、自分の間違いとは自分では気付きにくいものである。クソッタレなことに絶対的な客観視なんてこの世には存在しないので。
何が言いたいかというと、、この記事で私が善くない論法を使ってる可能性はある。全然ある。めちゃんこある。その時はごめんなさい。
清く正しくとは言ったけど、それが一番難しいんよな、、
以上! 終わり!! またね!!!