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カントリーミュージックを始めた頃の話
私がカントリーを歌い始めたのは大学生時代で、当然、幼少期から父親がカントリーミュージックの仕事をしてる関係で音楽こそ聴き馴染んでいたけれどそれ以上の興味があったわけではなかった。その当時は演劇の方が好きだったので舞台演劇の役者になることを夢見て、音楽に関しては、小学校時代から教会に通っていたことから聖歌隊で歌うのとエレクトーンを習っていたので演奏が好きで大会に出まくっていたくらいだった。大会は確か、高校生で関東大会で賞をとったけれどその次は大人の部になるからしばらく年齢的に出れないと言われたらすっかり興味を失って辞めてしまった。今は、たまにちょこっと電子ピアノを下手くそに弾く程度になってしまった。
大学時代に、「新太郎の娘なんだから、カントリーを歌わせて数少ない日本のカントリーシンガーにさせたらどうか」と、女優加賀まりこさんの兄であり、大映・松竹のプロデューサーの加賀祥夫さんが父に声をかけてくださり、加賀さんが経営する六本木のアマンドの向かいの地下にあった「MR.JAMES」というカントリーのライブハウスでアルバイトという名目で前座をさせてもらうことになった。父のシティライツというバンドはそのお店で昔から出ていて、父も加賀さんに大変お世話になっていたが、その頃、父は一度シティライツを解散させて、本人は寺内タケシとブルージーンズのメンバーとなってワールドツアーやレコーディングなどの仕事を忙しくしていた。それでも、誰かに頼まれるとカントリー仲間の演奏でスチールギターを弾いていたのでたまに母と聞きに行っていた。
MR.JAMESの加賀さんはそのお店の入り口にあるレジのところにいつも座っていらして、音楽を楽しんでか、いつも足を踏み鳴らしてニコニコしていらしたが、御作法にはとても厳しい方で、比較的真面目でおとなしい私も何度か怒られたことがあった。あれはいい経験だった。それが今の時代に合うのかわからないけれど、特に印象的なのは、”あなたはライブハウス慣れしすぎてはいけない。小さくまとまってしまうから”とたびたびおっしゃって、ライブが終わった休憩時間に、あれはよかった、あれはダメだった、と細かく教えてくださった。それこそ言葉の語尾や指先の向け方も綺麗かどうか、細かく教えてくださって、私のステージの先生だった。父の同業の娘で、それも大学卒業の20歳そこそこの下手な小娘によくぞ熱心に教えてくださっていたと今更ながら思う。晩年、この数年前にライブハウスに来てくださったときに、「加賀さんがいらっしゃらなければ今の私はいませんでした。」と頭を下げたら、少し嬉しそうに笑ってくださり、肩に手を置いて「今日はよかったよ」と言ってくださったのは私の一生の宝物だと思う。
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さて、六本木で歌い始めたことが日本の狭いカントリー業界に「スチールギターの新太郎の娘が歌ってるらしい。2世が出てきた」と知れ渡った頃、小坂一也さんから電話をいただき、「日本人だから日本語でカントリーを歌ってほしい。日本人の心にストレートに届くからその方がいい」とアドバイスをいただいた。その頃、父の世代の大先輩がNHKの歌番組の洋楽特集でカントリーやアメリカポップスを歌っていたり、確か、フジテレビのお笑いの番組でウイリー沖山さんがヨードル指導をなさったりはあったけれど、もう日本でアメリカンポップス、カントリーなどが流行った時代からはだいぶ時間が経過していたので、レコード会社おろかテレビでも古き良きアメリカ音楽が取り上げられることはほとんどなくなっていたと思う。タモリさんにお会いした時に、「俺、カントリーはちょっとね。田舎くさいから」とカントリーを”カントリー”と捉えたジョークなのか、本音なのかおっしゃっていて、それは確かテレビでも発言されていたかと思うけど、概ね世の中の印象としてはカウボーイハットにブーツに田舎のあんちゃんが馬に乗って荒くれ者で飲んだくれて歌うのがカントリー的な印象が強かったと思う。しかし、カウボーイはカントリーというわけでもなく、どちらかといえば商業的に作り上げた音楽がカントリーミュージックなので、田舎というよりそれなりの都会(テキサスやナッシュビルが都会かどうかはわからないけど、現在はかなり都会的)の音楽なんだけど、日本では50年前のカントリーのイメージが相変わらず強かった。
というのも、レコード会社の方が、「頭に羽をつけて歌うのはどうか?」とおっしゃって、ネイティブアメリカン(今は使ってはいけないインディアンという単語)の格好で売り出して当時流行っていたバラエティで歌うのはどうかとか、「パイナップルプリンセスを今一度、レコーディングしよう」と、アネット・ファニセロや田代みどりさんのように売り出そうという話や、とても著名な方が演歌を歌う相手の女性を探しているからどうかというお話もいただき、どれも本当に私にはありがたい話ではあったけれど、その頃から父と同じカントリーミュージックだけ歌っていきたいという思いも強く、父もシティライツを再結成して、私を加入させてくれたこともあり、私は器用な方じゃないので、生意気にもレコード会社のご提案にはご辞退という形で終わってしまった。それが今となってはいいのか悪いのかわからないし、何がなんでも有名になりたい!という人なら絶対にやっていただろうから、私にはその根性も才能もないのかもしれない。
その後、私は結婚して子供を二人育てることになり、家庭を中心にする時間も多く、それはやはり、自分の父親が音楽家でほとんど家にいなくて学校の行事にも来てくれなかったりということが頭によぎって、なるべく私は母親であるしそばにいてあげようという思いもあったかもしれない。とにかく、どちらかと言えばフラフラした音楽活動だったのかもしれない。が、細い活動なので今も継続しているのかもしれないと思うとそれはそうとも言える。
小坂一也さんは、私が音楽を始めた頃、いろいろな音源のテープを送ってくださり、こんな日本語のカントリーっぽい楽曲があるから歌ってみるといい、とアドバイスをいただき、トミ藤山さんからはラスベガスのショーやコロンビアのレコーディングで使っていた衣装をたくさんいただいた。黒田美治さんご夫妻には可愛がっていただき、ウイリー沖山さんには腹筋の使い方のコツを教えていただいた。大野義夫さんには体調管理を指導していただき、かまやつひろしさんにはいつか一緒に歌おうねと声をかけていただいたこともあった。一緒にツアーをさせていただいたジミー時田さんには一番お世話になった。ステージでの対応、普段の心がけることを教えていただき、ステージ袖では緊張してる私の背中をポンと叩いてくださり送り出してくださった。そして「ベイベーちゃん、大丈夫だよ」と私を送り出してくださった。(私のことをベイベーちゃんと呼ぶのはジミーさんとマイク・ダンさんだった)
私が結婚してからは、寺本圭一さん、宮前ユキさんに、家庭と音楽のこと、特に宮前さんには子育てと音楽活動のことを相談にのっていただいたりした。宮前さんは出産後しばらく休業という形で子育てをなさっていたこともあり、私が休業しないで音楽活動をすることで周囲から色々言われていることをご存知だったようで、応援してくださっていた。いかりや長介さん、立川談志さんにはカントリーミュージックとはなんぞやという話を伺ったり、ミッキー・カーチスさんには優しくしていただき今も時折やりとりをしている。そして多くのカントリーミュージックを演奏するバンドマンのおじさま方には「お前のおむつを取り替えたことがあるぞ」という冗談を言われ、楽屋で場を沸かせていた。父の演奏を幼少時代に母と共に見に行って、楽屋などをうろうろしていた私が、同じステージでカントリーを歌おうとしている様子を見守っていて下さったと思う。
こう書いてみると、私は父のおかげで本当に色々な方から、素敵な経験と言葉の宝物を分けてもらっているんだと気づいた。今からでも遅くないならば次の世代に伝えられるよう自分なりの音楽活動を継続しなければいけないと思う。といっても、昔と違い、カントリーミュージックをどう広めるか、認知してもらう活動をすればいいのかはとても大きな課題となって私の前に立ち塞がっている。そして先日、大学合格してようやくのんびりギター練習をしマレン・モリスの「My Church」を歌いながら「大学でさ、カントリー知ってる人いるかなぁ。いないよねぇ」と笑っている次女を見て、「ああ、子供が大きくなるまでの間に、日本で日本人のカントリーをもう少し認知してもらう努力をしておけば」と、斬鬼に耐えない気持ちになったのもある。
長すぎたのでまた続きは次回へ。
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