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エスケイプ

「誰か犯してくれへんかなぁ」

まりはそんなふうに言った。紙パックのレモンティーにさしたストローを噛みしめて。まりの隣では声の大きいグループが、スマホを眺めながら笑っている。私たちの教室は窓が大きくて、ふんだんに日が差すぶんものすごく暑い。クーラーの冷気も窓側ではほとんど意味がなくて、カーテンを閉じたまま窓を開けて風を通すから、さっきから何度もカーテンが翻る。それをじゃまそうに手で払いながら、それでもまりが席を変えないのは外に近いところに居たいから。

まりは時々、こういうことを言いたがった。こういうことっていうのは、ちょっと突拍子もないこと。現実逃避。きちんと二つに結んだ髪。前髪にたくさんへアピンをさしているのは、申し訳程度の反抗かもしれない。今日はさぼろうかなぁ、と、毎日のように言っていたけれど、まりがさぼったことは一度もない。

「誰でもいいの?」

私が間抜けに話をひろう。中庭からマーチングバンド部の、息の揃った掛け声が聞こえてくる。


全体 進め

一・二・一・二・一・二……

全体 止まれ

一・二ッ


「誰でもええわ」

したことないのが、面倒。とまりは言う。処女、という言葉を口にするのをためらって、私もつい黙ってしまう。

昼休みの女の子はいろんなところにいる。中庭にも体育館にも、教室にも廊下にも、掃除していない床に座ったりロッカーに腰かけて足をぶらつかせたりもする。ばらばらに、好きに、自由にふるまっているように見えるけど、私たちは今「学校」にいるんだってことをちゃんと知っている。

「したら大人なんかなぁ」

ぽつりとつぶやく私のことを見ないままで、まりはストローを噛みしめる。そういう話じゃないんだってこと、わかっているのにうまく言えなくて、まりと距離が空いてしまう。ささくれだった友達の気持ちを、うまく慰めてあげたいと思うのに、いつだって私には言葉が足りない。

「ひろちゃんは、焦ることない?」

まりは、独り言こそ威勢がいいにもかかわらず、私に話すときは少し口調が遠慮がちになる。焦る? と聞き返したときに予鈴が鳴って、まりは足早に自分の席へと戻ってしまう。

教室にはランク付けのようなものがあって、無意識に誰が強くて誰が弱いか探り合っている、なんて漫画やニュースではよく見かけるけれど、うちの学校にはあまり当てはまらないと思う。良くも悪くも、皆自分のことに手いっぱい。だけど、男の人とすることに関しては誰もが敏感だ。誰が経験を済ませたかということが、あっという間に広まってしまう。こういうことが、女の子の間では小さいころからたまにある。誰に好きな人ができたか。誰が初潮を迎えたか。この先もずっと、こういうことを比べ合うのかと思うとちょっとつまらない。だから、先生とのことはユキちゃんにしか言わないままだ。焦ってしたことだなんて、誰にも言わせない。

ユキちゃんと、教室ではあまり話さない。それはちゃんと決めたことではないけれど、暗黙の了解というやつだったと思う。だから、私とユキちゃんが親しいことをほかの子たちはあまり知らなかっただろう。私にとってユキちゃんはそういう友達だから。なんでも話せる、というあけすけな仲のよさじゃなくて、特別なことだけをちゃんと、ここぞ、というときに話したい友達。そういう友達を持つことは、いつも一緒にいるまりにとってはひどいことだったのかもしれない。

ユキちゃんは友達が少ない。ひろちゃん、と私を呼ぶその言い方が子供っぽくて可愛い。

「初めてやねん」

いつか、屋上でユキちゃんはそう言った。

「何が?」
「うちを、ふつうに扱ってくれた子」

ひろちゃんが、うちにとって初めて。ユキちゃんの一人称が「うち」になったのは、私が話すときの癖が移ったんだと思っている。思い上がりかもしれないけれど。

「うちに声かける子って、皆ちょっといいことしてる人の顔するねん。でも、ひろちゃんは違うかった」

ぽつぽつと話すユキちゃんの長い髪が風にあおられて、私の首筋に当たるからくすぐったかったのを覚えている。

ユキちゃんにとって、きっと私は特別だった。だから、先生みたいな人を好きになったことが気に入らなかったのだろう。
私は先生の弱さを知っている。でも、それはユキちゃんにも話さない。


謝らせてください


下駄箱にユキちゃんからのメッセージを受け取ったのは、三年生の初夏。私たちが話さなくなってから、しばらく時間が経っていた。
遮るもののない日差しと、コンクリートの照り返しに挟まれて、屋上はとても眩しい。乾いた風がぶわりとスカートを翻す。久しぶりに顔を合わせたユキちゃんは、少し痩せたみたいだった。

「これ」

髪を耳にかける。長い黒髪で隠れていた、右の耳たぶにはちいさなピアス。もちろん学校では認められてない。

「髪の毛で隠してたんよ」

ユキちゃんの話し方はイントネーションが他の子とすこし違う。小さいころ住んでいた場所がこことは違っていたせいだと思う。

「かたくて取れへんの。取ってくれる?」

私の答えを待たずに、ユキちゃんの指がピアスの頭部と耳の裏のキャッチをつまんだ。もうずっといじりつづけていたらしい、赤みの広がった耳たぶがくねる。ピアスは行ったり来たりするだけで、なかなかうまく外れない。

「ファーストピアス、いうて、一か月つけっぱなしにするねん」
「痛かった?」

ちょっとな。ユキちゃんは目を細める。外れないそれに焦れるのか、手つきがだんだんと乱暴になる。小さな金具をつまみ損ねるたびに、爪がカツ、カツ、と鳴る。

「待って、うちがやるから」

ユキちゃんの指と代わる。くりくりと回したり少し押してみたり、格闘してみたけれど頑丈なそれはなかなか外れない。

「思い切りやって、痛くないから」

そうユキちゃんが言ったから、私は精一杯の力を込めて引っ張ろうと努力した。でも、他人の傷に触れる恐さが邪魔をしてうまく思いきることができない。予鈴が鳴るせいで、気がせいて手元がおぼつかない。指先に集中する。ユキちゃんの手が、反対側の耳に触れた。

ぶちっ、と金具の外れる音がして、ピアスが外れた。自由になった私の手は、真横にあったフェンスにぶつかった。ユキちゃんは用意していたティッシュで、穴の出来た耳たぶをきつくつまむ。はじめ濃く付いたまるい血のしみは、ユキちゃんがティッシュを持ちかえてもう一度ぎゅっとつまむと薄くなってすぐにつかなくなった。

ユキちゃんは血の出なくなった耳たぶをつまんだまま。私はユキちゃんに刺さっていたピアスを握ったまま。お互いしばらく黙っていた。何か言うべきことがそこにあって、お互いただ言葉を見つけられずにいるような。お互いの心の模様は分かるのに、言葉だけがどこにもない。

「ごめん」

ユキちゃんが不意につぶやく。

「うちのせいで、先生辞めてしもたな」
「ええねん。元々、辞めるつもりやったんやて」

ユキちゃんの目が、もの言いたげに私を見詰めている。その視線に気づかないふりをして、ユキちゃんの耳から抜き取ったピアスに目を落とす。

「最初のピアスって、こんなに太いねんな。大丈夫?」
「うん。いまは全然、痛くない」
「見せて」

ユキちゃんの手首を握り、耳から手を離させる。掠れた血の跡や、赤くなった皮膚とは裏腹に、未完成のピアスホールは頼りないほど目立たない。今にもふさがりそうに小さな傷なのに、一度貫通した穴は一生消えないらしい。

「なんで開けたん」

ユキちゃんの傷を眺めながら、つい咎めるような言い方になってしまう。見つかったら、めっちゃ怒られるで。停学かもしれへんで。自分でも、つまらないことばかり聞いている、と思うのに、何か言葉で埋め続けなければ、少しの間(ま)にも耐えられないような気持ちになる。不意に距離を詰めすぎて、適切な立ち位置がわからない。

「なんか、残したかってん」
「なにを?」
「わからんけど」
「なにそれ」

思わず少し、笑ってしまう。ユキちゃんは泣き笑いみたいな表情になって、またそっと手を当てて耳をかばった。その仕草は、貝殻から波音を聞こうとする子どもに似ている。

本鈴が鳴っている。けれど私たちは今日、もう教室には戻らない。

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