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海辺のあの子

あの子の名前ならよく覚えている。けれど毎日をふつうに暮らすとき、わたしはそれをすっかり忘れたふりをする。高校時代の思い出を話すときだって、わたしの物語にあの子は出てこない。あの子の名前、それはわたしにとって、誰かに聞かれた途端元のかたちでなくなるようなもろいものだ。ときおり、意味もなく目の覚めた朝方なんかにそっとつぶやいてみるだけの、通り過ぎた日々の墓標。

あの子は学校指定のローファーをもっていなかった。
いつも、先の赤い上履きを履いていた。すぐに汚れる布のやつじゃなく、メッシュ素材でできたほう。しょっちゅう洗うのか、たいていは清潔に保たれているそれだけど、彼女が浜辺を歩くのでいつも砂が入り込んでいた。わたしたちの学校は海のそば。あちこちの塗装が剥げて錆のしみついたフェンスが囲む、ふるいふるい木造の女子高。

うちの学校にいじめはなかった。のんびりとしたわりに進学には力を入れるたちの学校だったので、小テストや補講にいそがしくひとをいじめる暇なんてなかったから。でも、あの子に友達がいなかったのは事実だ。登下校も体育も上履きでいるところは浮いていたし、無駄なおしゃべりは嫌い、っていう雰囲気をしっかりまとっていた。それに、あの子はひとりでいるのが似合っていた。

わたしは結構要領がいいほうで、よく言えば友達が多かったしわるく言えば平凡でどこにでもいるタイプだったので、あの子のように堂々と「変わって」いられることに興味があった。というのは後になって分析したことで、正直に言えばあの子の見た目が好きだった。ある朝、教室に続く階段をのぼっていると、体育着を着たあの子がおりてくるところだった。すこし急いていたのか、弾むように足をおどらせながら一段とばし(!)で駆け下りてくるあの子の、制服ではわからなかったゆたかな胸のかたち。体育着の裾を出しているせいで、すらりと長く見える胴体の腰まわり。だれもきちんと巻こうとしない白いハチマキを、律儀に頭に巻いていた。長く余ったハチマキのはしっこに、ペンでしっかりと記された名前。そうしたぜんぶが、一瞬で、わたしの胸に焼き付いた。

あの子と近づきたかった。だから、わたしは精一杯興味のないふりをした。気を使って話しかけるような、あの子に憧れを抱くような、そんなふつうの在り方じゃ、あの子のそばにはいられないとわかっていた。なにかのついでみたいに、ほかに大事なことがあるように、ちゃんとしたひとりの人間として、あの子の目に映ってみたかった。

はじめて口を利いたのは――そして最後になるのだけど――三年の、夏の終わりごろだった。夏期の補講の最終週。お盆明けに日焼けしてやってくる生徒が多いなか、あの子はいっそう白く、まるで夏に気づいてないみたいに涼しげに見えた。
そんなあの子が、ひとりきりの教室でせわしなく歩き回っていた。クーラーが切れているせいで、頬を薄赤く上気させている。それでいて目は焦ったように輝きをなくし、いつもよりずっと生気をうしなって見えた。どうしたの、と声をかけると、ペン、と小さく答えが返る。

「ペンがないの」

ここに、あったはずなのに。

ペン一本なくしただけとは思えないほど狼狽して、あの子は肩をふるわせていた。大切なペンなの? といま思うとまぬけなことを尋ねると、意外にもあの子は首をよこにふった。もの、なくなるの、いやなの。短く、だけどはっきりとそう言いながら、制定カバンの底を引っ掻き回すあの子のうしろすがた。ふり乱した黒い髪が左右に流れて、うつむいた首筋がむきだしになる。白い肌に浮いた、サンゴのような頸椎のかたち。

「一緒にかえろう」

わたしの声がして、びっくりした。声に出したつもりはなかったから。

海はしずかだった。夕方に少し近い、蜜色に光る波のつぶ。あの子はぽつぽつと、それでもよく喋った。これまでもものがなくなることがあったこと。上履きしか履かなくなった理由。ちいさいころからずっと、下駄箱の靴は軒並み隠されてしまうのだという。なくなった靴はごみ箱やトイレから見つかることもあれば、どこにも見つからないこともあるけれど、だいたいは後者なのだそう。

わたしは、これまでなくなったあの子のもちものたちを思った。それを持ち去ったひとたちのことも。わたしはそのひとたちをしらない、だけど、いまは世界でいちばん近しいひとたちのように感じる。それを悟られないために、わたしの返事はふうん、と生返事ばかりになってしまう。あの子は気にしないふうで、話したいことだけをぽつり、ぽつりとこぼしてゆく。なんだっていいのだ、返事も、そばにいる人間も。

わたしの名前知ってる? そう尋ねたい気もしたけれど、どんな答えでもわたしの反応はぶざまになってしまうから、やめた。

わたしたちの学校は敷地が広く、海辺をどこまで歩いても金網のフェンスが続いてみえる。あと半年もせずに、わたしたちはあの中を出る。砂に半分埋まったローファーは、先に少し傷がついている。「卒業までもうすこしなんだから買わないよ、大事に履いてちょうだい」と母の言う靴、ほんとうはサイズが合ってなくてすこし、痛い。

人ひとり間にいるような距離を開けてとなりを歩く、あの子の上履きはゴムのところがくたびれている。卒業するまでに、買い足すのだろうか。上履きのままで、あの子は波打ち際をあるいてゆく。濡れた足跡がてんてんと、ついては波にさらわれてゆく。あの子のそばは心地よくて、わたしは自分まであの子のようにほっそりとした何かになったような気がしてしまう。汗をかいているくせに、ちっとも暑くない、と思えてくる。どこまでもこうして、あの子の足跡を追っていたい。

あの子はやがて、波の来るぎりぎりを踏んで歩きはじめた。波の痕に足を置いて立ち止まり、やって来ると飛びのいて避けてみせる。わたしも真似をしてみたけれど、一回でローファーの足首まで濡らしてしまった。あの子はそこで声を立てずに笑い、得意そうにもう一度波のぎりぎりを踏みつける。すると、すぐ後からきた波がぶつかって大きなそれになり、彼女も足先をすっかり濡らしてしまった。わたしたちはきょとんとなって顔を見合わせ、今度は声を出して笑った。

わたしはハンカチを取り出そうとして、カバンに手を忍ばせた。ペン、きっと見つかるよ。そう言うつもりであの子ばかり見ていたから、手探りで触れた布をつかんで引っ張りだした。

それが失敗だった。

あの子の表情が色を失い、じっと私の手元に視線が注がれる。無理もない、わたしがハンカチのつもりで手に取ったのは、ずっと前くすねてから大事に、ずっと大事にカバンにしまっていたあの子のハチマキだったのだから。きちんと折りたたまれたそれの端っこに、くっきりと刻まれたあの子の名前。

潮風がうるさい、と思ったのは気のせいで、風はちっとも吹いていなかった。少し濡れたあの子のスカートが、じっとりと重たそうに目に映る。細い足を包むハイソックスは無地。そうしたひとつひとつがやけに目について、体中の血がさっと足元へ落ちてゆく。あの子は上履きを脱ぎ、波打ち際に置いた。波が寄せるたび砂に埋もれ、すこしずつ海へと押し出されてゆく。溺れると知らずに沖へ向かう、ばかな陸の虫みたいに。

「あげるわ」

なにも言えなかったのは、あの子の声がとても、とてもとても傷ついていたから。


ペンは、翌日落し物入れのなかから見つかった。けれど「あったよ」と声をかけることができなくて、そのペンがあの子のもとにかえったのかどうかはわからないままだ。

いまも時折思い出す、あの子の表情、あの子の孤独。あの日、波の下に消えた、上履きの先の赤かったこと。

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