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蟲の恋


晴れた朝。ビニルハウスは日差しをいっぱいに受けて暖かく、土がやわらかに匂いを立てています。いつものようにブリキのバケツを持ってやってきた老人がビニルハウスの中を歩くたび、朝露に湿った土が彼の体重に見合った慎ましい深さで沈みます。


蟲は肢の間から伸ばした糸にぶら下がり、八つの肢をゆっくりと開いたり閉じたりさせました。ほんとうは蟲とは呼ばない生き物ですが、ちいさくて肢の細いところはとても蟲らしくあるのでここでは蟲としておきます。


蟲は老人が大切にしている花の向かい、ビニルハウスの中のいちばん大きな植物に巣をこしらえて生きていました。老人は毎日ビニルハウスにやってきて植物に水を与えていきますが、目があまり良くないので、蟲のこしらえた繊細な巣に気づくことができません。一回り、二回り、日に日に巣は白く、見えやすいようになりましたが、いかんせん老人は背が低いので、背の高い植物の葉と葉をむすんでこしらえた蟲の巣が視界に入ることはありません。蟲はつっと糸を伸ばし、立派な巣からぶらさがります。そして、やっぱり肢を開いたり閉じたりさせました。


蟲の目の前で老人は立ち止まり、その根元に置いたふたの無いティーポットを手に取ります。老人はブリキのバケツからティーポットへと水を移し変えました。それはまるで儀式のように、毎日変わらず繰り返される光景です。花の根元に、たっぷりと水が注がれました。つぼみの花はうつむいたように曲がり、花弁を重たげに垂らして揺れています。跳ねた水が付いた広い葉を、いとおしむように老人の指がそっとなぞります。蟲は糸を伸ばし、膝をついた老人をより近くから見下ろせる位置までさかさまの体を下ろしました。


老人は、振り向いてはくれません。


やがて老人は背筋をうんと伸ばし、首を左右に傾けた後一度その場を立ち去って、ビニルハウスの入り口から長く伸びるホースを引っ張りました。ホースに付いたレバーをぎゅっと握り締めると、先端から雨のように広がった水が噴き上がります。蟲の巣が、植物の葉からこぼれた雫で輝きました。蟲は糸を手繰って巣に戻り、今朝息絶えた蝶の体に身を寄せました。蝶の羽根は、水をたいへんよく弾くのです。老人は大雑把に水を撒き散らし、土はまばらに濡れてゆきました。植物たちは葉にばかり水を受けて青々ときらめきます。根っこに水は足りません。それでも、彼らは生命の匂いをたたえて上を向くのです。太陽の光のある空へ。老人は放水を止め、花の傍に腰を下ろしました。低く昇った太陽が空の真ん中に向かって動きます。
老人が花を見つめても、花は口を利きません。
蟲は、蝶の体を食べました。


夕方になりました。雨雲が暗く空を覆い、飢えた植物たちは恵みの足音に茎を震わせています。やがて大粒の雨音が騒がしくビニルハウスを打ちました。花と向き合ったまま居眠りをしていた老人は、目を覚まして重たそうに腰を上げました。ズボンのお尻が土で丸く汚れています。老人はゆっくりと辺りを見回し、ビニルハウスのどこもガタがきていないのをみとめると再び視線を花に戻しました。つぼみの先がくしゃくしゃとして、いまにも開きそうに見えますが、今日でないのは明らかです。開きそうな花びらのもう一つ内側で、堅い花の芯がちょんと先を覗かせていますから。


老人は溜息をつきました。ティーポットを元の位置に戻し、雨の伝うビニルハウスの天井を見上げて。普段、老人はひととおりの水をやった後、少し眠るかもしくは何もしないですぐにビニルハウスから去っていくのが常のことですが、その日老人はしばらくの間行ってしまおうとはしませんでした。雨がひどく強いからです。ほんとうのところ、老人はビニルハウスの入り口に傘を置いているのですが、それは専らビニルハウスに穴が出来たときにつかうので、老人はいまそのボロのことを思いつきませんでした。
蟲は、湿気でやわらかくなった巣の上でゆっくり糸を出しました。巣がまた一回り、立派になろうとしています。いつも花ばかり見ていた老人は今、めずらしく雨空を見上げたままですが、蟲にはやはり、気が付きません。


老人の視線がまた下を向き、それはどこか物欲しげな色を帯びて花に注がれました。老人は花びらを指先で掻き分け、いちばん色の濃い中心に触れました。花は拒むように細い茎をしならせていましたが、老人は手のひらで花の後ろ頭を押さえつけ、指を花の奥へと押し込みました。しかしかたく閉じたつぼみの真ん中は、老人の思う通りにはなりません。老人は指を変え、何度も何度も花を開かせようとしましたが、ついに諦めて膝をつきました。

浅く埋もれた膝の横を、一匹の青虫が通ってゆきました。肢の無い体をくねらせて、丸々と太った体は上下にうねりながら花に向かって進みます。老人は躊躇無くその腹を指で押しつぶし、花の根元に埋めました。
蟲は見ていました。老人の手は汚れてしまったのに、花は麗しいままでいることを。青虫の死骸に根を絡ませて、花は彩りを増すのです。哀れな養分を啜り上げ、よい匂いをあのつぼみの中に持つのです。
そうして美しいまま生きながらえることが許される生命。それは、生まれつき決まっているのです。
蟲は糸を出すのをやめました。


雨の音が静かになり、老人が立ち去ったあと、蟲は八つの肢を懸命に動かして糸と繋がった体を揺すぶりました。振り子のように左右に、次第に大きく振れていく小さな蟲。頑丈な糸はやがて細く長くなり、蟲のすぐ上でぷっつりと切れました。蟲はティーポットの中に落ち、底に張った水に八つの肢をゆっくりと泳がせました。
明日、老人はティーポットの口から零れ出た蟲を見て何を思うでしょう。哀れみ、花に触れたようにやさしく手にとってくれるでしょうか。花を見たような目で見つめてくれるでしょうか。かなわないのならせめて、その指で押しつぶしてくれるでしょうか。

溺れてゆく意識の中で、蟲はうつくしい夢ばかり見るのです。

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