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サイレント

チカちゃんは恋人がいると言う。

「ねえこの子あんたに似てない?」

ひどい、と私は思う。チカちゃんの言うその赤ん坊は猿みたいだから。チカちゃんは私の返事がないなんてどうでもいいみたいに振る舞い、赤ん坊にばかり構った。親戚の子どもだというその子は、チカちゃんにぜんぜん馴れないみたいでよく泣いた。赤ん坊が泣きだすたびにチカちゃんはその子のオムツを外し、汚れていないそれを丁寧に取り換える。期待外れの接待しか受けられない赤ん坊は発情した猫みたいな声で騒ぐけど、涙が呼ぶものはオムツの交換ばっかりでミルクやママの抱っこにはありつけそうにないみたい。

「チカちゃん、それ、お腹すいてるんじゃないの」
「たぶん。でもウチおっぱい出ないし」

当たり前みたいに言ってのける理屈はとても真っ当っぽく思えた。ウチはウチに出来ることをするだけだよーとチカちゃんが言ったそばからまたすさまじい泣き声がして、オムツからテープを剥がす乾いた音がそれを追いかける。私はお土産に買ってきたケーキを自分でテーブルに並べながら、空のカップに匙を投げいれる。ささやかなアピールは一段上がった泣き声であっさりとかき消えた。紅茶を注ぐ私、ぶざま。

「どんな人なの」

何気ない調子で言ったつもりだけど、チカちゃんが返事をしないからなんだか言葉が浮きあがる。どんな、人? 今度ははっきり聞いてみたけれど、チカちゃんはんー、と唸るだけだった。

「卒業アルバム見よう」

そう言ったのはチカちゃんなのに、チカちゃんが指示した場所からアルバムを抜きだすのは私だった。チカちゃんの両手は、笑わない赤ん坊でいつまでもふさがっている。アルバムはいくつかあるけれど、私たちが一緒に写っているアルバムは高校のそれだけだ。チカちゃんのんー、はいつのまにかへんな鼻歌に変わっている。

私の腕にぬるい重みがのしかかった。チカちゃんが私に押しつけた赤ん坊は今にもぐずりだしそうに、ぼんやりとした眉をひそめている。この数十分でずいぶん嫌いになった赤ん坊の泣き声を間近で聞かないために、私はチカちゃんに赤ん坊を戻そうとした。チカちゃんはアルバムを開いていた。

繰るページ繰るページ、写真の一枚一枚を丹念に眺めたけど、集合写真で手が止まる。それから、開いたままのそれを私の方に寄越した。赤ん坊を抱いたまま私が覗きこむ。集合写真の端っこで、私の顔だけが修正液で塗りつぶされていた。顔を上げると、チカちゃんはじっとうつむいている。たぶん、私を傷つけたいんだろう。もう一度アルバムを見る。私の顔のちょうど反対側に、修正液のうつった跡が残っていた。乾く前に、焦ったな。私は椅子に腰かけて赤ん坊を膝に乗せ、持ち上げたカップで微笑みを隠した。入ったままの匙がくるりと回る。チカちゃんはいま幸せじゃないみたい。

「別れなよ」

チカちゃんはテーブルの向かいで突っ伏した。外からサイレンの音がする。赤ん坊が私の腕で泣き出して、私はちょっとだけ困った。

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