15分たち
冬の独裁者
きれいな子、とあなたは日に何度思うことがあるだろう。たとえばいま、目の前にいる女生徒はそう思うに値するだろうか。彼女は一目見る限り平均的と言うべき顔立ちかもしれない。でもよく見ると、制服はスカートのプリーツまできちんとアイロンがあてられ、短い靴下を履いた脚は寒々しいが色は白くまっすぐに伸びている。革靴もよく手入れがされているし、おまけに髪がすこしも乱れていない。きょうは風が強いのに! きれいな子、とあなたは認めるだろう。いや、清潔な子、きちんとした子だろうか、と僅かに修正をこころみるものの、やはりあなたはきれいな、という修飾におちつく。彼女にそむいてはならない。なぜなら、彼女はきれいなのだから。あなたは僅かに立ち位置を変え、北風をうけとめる。きれいなひとのまえにいると、あなたは自分をなにかおおきくてみじめなものだとかんじてしまう。
ふと、あなたのそばを人が通り過ぎる。おおきくてみじめだったはずのあなたはもとの慎ましやかな大きさに戻り、彼女の友人と思しきべつの女生徒が、彼女の肩を叩くのをそっと見守る。複数になると途端にとるにたらないなにかに変わるのは、少女たちに共通の特性なのかもしれない。
バスがやってくる。とうに秩序をとりもどした世界の中で、あなたはあらかじめポケットに入れておいた運賃を握りしめる。交通機関でもたもたとすることが、あなたは大嫌いなのだ。
愛すべき「夜中」
「夜」たちは泣いていました。いちばん年若の「宵」だけはきょとんとしていましたが、とりわけ「夜中」の嘆きぶりはすさまじく、声を押し殺してひきつるように泣くさまは喉を潰すのではと心配になるほどでした。
「朝」たちはいま揃って出払っています。外は眩しい、春少し前の「早朝」です。仕事までまだ少し余裕のある「真昼」が、「夜中」に涙の理由をたずねました。
わたしはきらわれている。わたしの時間には、まちがいがたくさんおこる。愛の手紙は詩情が過ぎて精彩を欠き、思いもしない相手と寝てしまう。みんなわたしのせいと言う。
涙にくれる「夜中」をみて、それはひとを狂わせるほどきみがうつくしいんじゃないかな、と「真昼」は思いました。けれども、愛を語るには彼は明るすぎるのでした。
淡いパイロット
もうずっと会っていないのに、そのひとのために生きているとしか思えないひとがいる。たとえば髪型を変えるとか、レストランのメニューに迷うとか、そうした罪のない選択に迷うとき、僕はそのひとを基準にして考える。もちろん、僕が選ぶのはそのひとがおそらく選ばないだろう、という方なのだけど。そのひとのことで、僕はずいぶん苦しんだものだとおもう。そのひとの心をおもんぱかり、なるべくそのひとのいいように、なるべくそのひとの気に入るようにと努め続けた僕は、いつしかそのひとを胸のうちに棲まわせてしまった。僕がなにかしようとするたびに、そのひとの声が追いかける。そんなことをしてなにになる?
いまおもえば、とるにたりないひとだ、とおもう。街を歩けば似た人を十人は見つけられるだろう。それでも、僕のなかでそのひとはより洗練され、なにかとても尊い、細くうつくしいものになっている。時間の川が現実を磨耗させ、ほんとうではない素敵なものだけを残している。
僕は深く慈しむ。かつてそのひとだったかたまり。
つめたくないひと
わたしは夫の部屋を見たことがない。夫は家に帰るや否や部屋に閉じこもるのが常で、はじめはリビングでとっていた食事さえ部屋でとるようになって久しい。一度、食事だけは一緒に、と頼んだのだけど、夫はひそりと笑うだけでとりあってはくれなかった。
「よくあることよ」と近所の奥さんたちは言う。「うちなんて一度お風呂はいったらなかなか出てこなくって」「うちはトイレ」「うちはガレージ」「それあなたが追い出してるんでしょ?」あはは。練習したみたいにきちんとそろった笑い声は、卒業式のあいさつみたいだ。たのしかった、うんどうかい。
夫は一人、部屋でなにをしているのだろう。ためしてみたいのだけれど、わたしには自分の部屋がない。台所、リビング、寝室、子供部屋。あちらこちらにすこしずつわたしのものがあるけれど、そのどれもわたしだけの場所じゃない。
冷蔵庫をあける。やすらかにねむる、かつて生きていたものたち。ハム、ベーコン、どうしてこんな似たものばかりあるのだろう。チーズ、牛乳、バター。ひとつひとつとりだしてならべていくと、部屋の温度が少し下がった。
もう、いいかい。控えめな声がして、わたしはまぶしさに目を細めた。覗き込む夫の、ひそりとした笑顔。すっかり冷えてしまった手を伸ばし、夫のほおに触れてみる。
「みつけてくれたのね」
鳥と嘔吐
こわくない? こわくない、って繰り返すふたりのこどもの不平等さよ。世の中はなんて根本的に、守るほうと守られるほうとでできているのだろう。ほんとうにつよいのは、守られるほうだ。全身全霊で相手に委ねることを恐れていないのだから。こわくない? こわくない。言い切る方の手が震えていようとも、守られるほうはお構いなしに安心してしまう。
ひとにきらわれることは、こわくない? こわくないよ。ばかにされたり、かんちがいされることも? こわくなんか、ないよ。守るほうにはもう、はなっからひとつの結論しか許されていないのに、守られるほうはあまりに膨大な言葉を持っている。手を引いて歩いているはずなのに、いつしかそれは拘束に変わる。
むかしむかし、道徳的な大人に教わった鳥の話をしよう。雛鳥は親鳥に餌を与えてもらっていた。それでいて、雛鳥は親鳥をうたがっていた。自分には虫やミミズを与え、親鳥だけはどこかでもっとすてきなものを口にしているんじゃないか。
疑惑にとらわれた雛鳥は、ある日餌を与えようとくちばしを開けた親鳥のその喉の奥へ、幼いくちばしを突き立てた。もっと、もっと、もっと与えて。親鳥はもがきながら破裂した。辺りには草の汁だけが飛び散り、雛鳥は取り返しのつかない失敗に気がついた。
守られるほうは耳を塞ぐ。取り返しのつかない、という言葉の重さが苦手なのだ。こわくない? こわく、ない。ふるえる手は、いつか吐き出すかもしれない青い青い草の汁を思い、じっとりと汗ばんでいる。
風のひかり
その画家はひかりを見たことがなかった。しかし誰よりも言葉を知っていた。ものごとはすべて、それにつけられた言葉のイメージでとらえていた。猫を描けといえばうすももの雛菊を、空を描けといえば若草色のあじさいを もちろん画家は花も見たことがないので、雛菊やあじさいというのは批評家が便宜上見立てたものにすぎない ともかく、画家の作品は言葉をかたちと色(画家にとってそれは色ではなく絵の具の硬度の差異にすぎないわけだが)に還元し、見るものの内で枯れかけていたイメージの井戸に水を引くような、不思議な力を宿しているのだった。
そんな画家が頭を抱えたのは、はじめて出かけた旅の途中だった。画家はある風景を描いていた。誰もが知る安息の地、巡礼の最果てにある丘の上。もちろん画家はその景色を知る由もなく、ただ多くの冒険家や信者たちが残した旅の記録を読み聞かせてもらうことで、キャンバスをイメージで埋めていた。あと一歩だった。風、そのかおりと風合いをたしかめるために、画家はその地へ赴いたのだ。彼には多くの資産が、そしてパトロンがついていたので旅そのものに困難は伴わなかった。ただ、そこにはどの記録にもなかった巨大な樹木が茂っていたのだ。
画家は怯え、ふるえた。手にしたキャンバスを叩き壊したい衝動に駆られたが、重ねた絵の具で重くなったキャンバスはまるで大木と呼応するかのように硬かった。
のちに画家の遺作となったその作品は、いまもその多くを空白にしたまま。美術館の閉ざされた倉庫の中で、ときおりちいさく風を起こしている。
ピンクになりたい
「ピンクに変えて頂戴」わたしの影が言う。「ピンク、ピンクがいいの。灰色でいるのはもうたくさん」そんなこといわれても、と肩をすくめてみせるけど、影もまた肩をすくめながら黙ろうとしない。「ピンクピンクピンク、ピンクにしてくれなくっちゃあ、あなたの影なんてもうたくさん」
ならばしかたあるまい、いざピンク。わたしは方法をさがして歩き出す。駄菓子屋で買ったラムネ菓子の包装をはがし、ピンクのセロファンを透かして影を見る。「ピンク!」わたしは感嘆の声を上げるけど、影は鼻白んで答える。「あたし、変わらなくってよ。あなたの目が狂っただけ」
ピンク、ピンク、とつぶやきながら歩き出す。ラムネ菓子でのどがかわいたので、自販機で妙なジュースを買う。ピンク色ののみものは、ろくな味がしない。影は苛立っている。「あなたが飲んだところで何にも変わっちゃあいないのよ。自分が主体だと思い込むのをやめることね」
影に叱られてしゅんとしていると、強い突風が吹き抜ける。影が飛んでいったかとおもうくらい。だけど影はしっかりくっついていて、さめざめと悲劇的なにすすり泣く。
ふと、影のあたまらへんに花びらが落ちているのが目に入る。顔を上げると、すでに盛りを終えた春の花がこぼれるようにピンクを落としている。
「ピンク!」
わたしは花びらを影に乗せて行く。目、鼻、笑った口。
ピンクの笑顔になって、影はそっと言葉をなくしていく。
水彩の獅子
若くして変な死に方をすれば、偉くなれると思っていた。だからぼくは、若いうちになんとかして死なねば、とおもっていた。あの日群馬で、彼の絵を見るまでは。
彼は若くして変な死に方をしたひとの代表例みたいに生涯を終えていた。正直、彼が残した詩の価値はぼくにはわからない。ただ幼く、率直で、ああ夜中に書いたんだろうなあっていう感じの――つまりはこっぱずかしい――言葉にすぎない気がする。
でも彼の絵はちがう。彼の絵は、彼の死に方の全てを差し引いてもまるごと残るくらいにぼくの興味をひきつける。夏休みの宿題として連作で描いたのだという創作じみたエピソードさえ不要なくらい、絵は絵として、彼自身からさえも離れて成り立っている。物語を拒む絵。作品から作家を、引き剥がすほどの力量。
溶けるほどにまぶしい日の光。そちらに向かって踏み出す獅子の後ろ姿。水彩で描かれたこの絵はぼくを絶望させる。ぼくはいま、死んでもなにものこせない。
彼の美術館をあとにして、ぼくはおおきな白い観音像を拝観した。胎内にはいれる、というので、安い入場料を支払った。白い階段を延々と登る。上がりっぱなしの息が訴える、ぼくはまだ身体をひきずっているのだ。
巨大な観音像の胎内で、死にたがりだったぼくの子供時代が溶けていった。
渦を渡る
興味があればどうぞーの、ど、も言い切らないタイミングで父は怒鳴り出す。あるわけないだろ!
差し出されたフリーペーパーを掴み取り、ぎったぎたに丸めながら父の声は幼い私に降りかかる。言葉には気をつけた方がいい。謙遜と不遜は紙一重。ひとは君の思う十倍くらいは賢いし、百倍くらいはなにも考えていないのだ。とくに、他人のことは。
フリーペーパーの配り手はとっくに逃げ出してしまった。散らばったごみを拾おうとすると、拾うな! とまた父は怒鳴り出す。
父にとって、関心は財産なのだ。無関心でいなければ損をする。関心をむけてほしければそれなりの対価を示さねばならない。すなわち、素晴らしい芸術、素晴らしい業績、素晴らしい何か。それなりのレベルにも達しないうちに、他人からの関心が当然向けられるものと思い込んでいる人間が父は大嫌いなのだ。
父はかわいそうなひとだ。私しか父に関心をむけるひとはいないのに、私に無関心になれという。「関心を人になどくれてやるな。自分に向けろ。誰よりも自分を知れ、他人の関心を奪い取れ」父は繰り返す。こわれた軍人みたいに。
多くの人が、怒鳴っている父を見やってはすぐに通り過ぎてゆく。一瞬の関心の渦の中を、わたしたちは手を握り合って泳いでゆく。
つちくれ
チエちゃんは排泄を好んだ。それも、学校のグラウンドですることを。石灰と土の入り混じった、体育倉庫の入り口で。わたしはチエちゃんがそれをしている間、彼女を隠してやるのが仕事だった。隠すといっても、ごぼうのように細かったわたしがチエちゃんを隠せていたとは思わない。チエちゃんはクラスでいちばん早く初潮をむかえ、とっくにスポーツブラをつけていた。
先生がくるよ
そう言ってはみるものの、抵抗できたためしなどなかった。体育の後、ひとがはけてしまったグラウンドのすみに、チエちゃんは私の手を引いてゆく。チエちゃんがハーフパンツに手をかけると、わたしはすばやく目をそむけた。チエちゃんの下半身がこわかった。
尿が土を打つ音。チエちゃんの吐息。体育倉庫の入り口に、不自然にできる水たまり。いつだったか、私の足元まで泥が迫ってきて思わず飛び退いたことがある。チエちゃんはけたけたと笑い、ティッシュ、と当然のように手を出した。チエちゃんはポケットにものをいれるのがきらいで、ティッシュを用意するのはいつも私の役目だった。
チエちゃんに反旗を翻したのは六年生のはじめ。わたしは、体育の日を見計らってティッシュケースをからにしていった。
いつものように手を引かれる。チエちゃんがハーフパンツに手をかけ、取り返しのつく最後のときであるのを知りながらわたしは背を向ける。なまあたたかい水の音。さしだされた手の上に、からっぽのティッシュケースがのせられる。
チエちゃんは一瞬あっけにとられたようにぽかんとしたあとで、にたりと笑ってこう言った。
「じゃあ、手、かしてくれる?」
チエちゃんは迫り、わたしは一歩後ずさる。ぬかるみで靴がすこしすべった。
箱と富
つめのおと。ゆびのおと。かぶさるおと。わらうおと。「もういいかい」まぁだ。声が返る。ぼくは安心して、めをとじる。
箱の中を選んだのは、ぼくだ。おもてはどうもまぶしすぎるから。きみはさんざんごねて、ぼくが箱にはいることの不都合を並べたてた。すなわち、血栓について。肉体的接触の困難、あるいは収入がほとんど絶えること。ぼくは、じぶんは身体がやわらかいので、だいじょうぶだとおもう、と辛抱強く説得した。きみと話すためにたいせつなのは、論理が通っていることじゃなくいかに寛容であるかなのだ。肉体のあれこれについては、箱を通してもできないことはないだろう。まあ、多少の違和感はいなめないだろうが、ひとはいずれ慣れるものだ。収入についてだけはちょっとこまった。けど、きみは前の二つに納得すると案外あっさりとぼくの箱入りをみとめてくれた。なにかしらの計算がきみのなかではたらいたのかもしれないけれど、箱に入ってしまうぼくとしてはどうでもいいことだ。
箱の中はやすらかで、みちたりている。きみはよく箱にふれる。つめでこすり、てのひらでリズムをきざみ、おおいかぶさる。ときおり唇をくっつけて、ぶぶぶ、とふしぎなおとをたてる。ぼくはわらう。わらうと、声はぼくをつつむ。
もう、いいよ。そういってきみはいつか離れてゆくだろうか。ぼく入りの箱に封をして、もしかしたらリボンをかけて。水が苦手なきみだから、きっと海に投げ込むことはしないだろう。せまいところもきらいだから、土にうめることもしないだろう。
ぼくは箱に入り、きみをこの部屋にとじこめる。ぼくはきみに触れずに済ませたまま、きみのすべてを手に入れる。箱庭の鳥のように。与えられた富のように。
「もういいかい」まぁだ。ぼくは心地よくてめをとじる。箱の中は風がない。ぼくはきみのためにうたをうたう。つまさきがすこし、痺れている。
愛の食卓
息子には火を通したものしか食べさせたことがない。スーパーにも連れて行かないし、台所には絶対に入れない。息子はきっと、冷蔵庫の開け方だって知らないだろう。
夫はわたしを過保護だというけれど、わたしは息子にしらせたくないのだ。「いつかわかることなんだから」と夫は言うけれど、ならば問いたい。いつか受けると知っている痛みを、いま与えることに何の意味がある? 人生は戦いなのだから、しあわせな時間は長い方がいい。
息子の好物はからあげ、ステーキ、しょうが焼き。きちんと日の通って赤いところのないそれを、息子はほんとうにおいしそうによく食べる。わたしは息子の顔を見ながらいつも祈る思いでいる。どうか、その日が今日じゃありませんように。
「きょうね、モーちゃんと散歩に行ったよ」
あかるく話す息子。息子は、モーちゃんが何度も代替わりしていることに気づかない。
テーブルの上では先週のモーちゃんが、おいしそうに湯気を立てている。
じゆうなひと
あなたは出不精だ。休日は家にいることをよしとしているし、遊びには大抵気が乗らない。あなたのうちは田舎だし、電車の本数も少ないから。きっと生来そうであるわけではないのだろうけど、少なくとも環境的な問題で あなたは出不精だ。それでいてあなたは、自分はいつか外国に行くのだろう、という気がしている。パスポートももっていないくせに。
あなたは想像する。いつか訪れるべき外国を。そこでは人が違い、たべものが違い、常識がちがうのだろう。言論は統制され、インターネットは使えず、独裁的な政治が行われている。あなたは入国にあたって下着のなかまで取り調べを受け、老いた犬に隅々をかがれ、二度と出国を許されない。
あなたは街を歩く。祖国ではないのに、骨を埋めると決まってしまった国。土地は渇き、コンクリートがひび割れ、やたらといる老人たちは皆前歯が欠けている。彼らのほとんどはむっつりと黙り込み、微笑みを浮かべているのは精神に異常を抱えた者だけだ。あなたは目を逸らす。道の端には、死体のように痩せた犬がうたた寝をしている。あるいは、死んでいるのかもしれない。
あなたは想像をやめて立ち上がる。すっかり休日を潰してしまった。外は風が強く、春に似つかわしくない濁った雲がものすごいスピードで流れてゆく。コーヒーがのみたい、とあなたはおもうけれど、胃の具合がよくなかったことを思い出してやめておく。冷蔵庫にはろくなものがないが、あなたには外に出ない自由もあるのだった。
もらい火
ああつまらないつまらないって、なんでもない顔をしてきみは燃えてゆく。公園の砂場の真ん中で、くずれた砂のお城の真ん中で。
あしたになれば、こどもたちがきみの骨を拾うだろう。それと知らず、遊びにつかうこともあるだろう。きみはスコップになり、棒切れになり、武器になったり山のてっぺんにささったり、するのだろう。
つまらないつまらない。燃えながらきみはくるくる回る。ヒトの焼ける、あまり快くないにおいがする。ぼくは煙草がすいたくて、きみにライターの有無を聞く。
「デリカシーがないのね」
燃え盛る炎からすっと、焼け焦げた指が火を灯す。
お見送り
ふゆ、だよ、とささやくような声がする。灰色の空を吹き抜ける風が、金色のいちょうをひらめかす。ふゆ、だよ、ふゆ、だね、と木々のささやきあう声がする。
ぼくはどこへゆくの、とつぶやくと、いいところ、とどこからか返ってくる。いいところって? 続けて尋ねると、わらうようなざわめきのあとであちらこちらから声がする。
おたのしみ
おたのしみ
おたのしみ
さむくない? と尋ねる。さむくない。としっかりとした声がする。ここよりずっと、あたたかい。
ならいいや。ぼくは安心して羽根を伸ばす。南へと飛びそこねたこいつだって、布団の代わりくらいにはなるだろう。
目を閉じるぼくのうえに、ひかりの葉っぱがふりそそぐ。
愛と飢餓
わたしは強くならないように努力している。できるかぎり食事をとらず、眠る時間をへらし、朝と夜に一度ずつ嘔吐する。歯が溶けてはこまるので、吐き出した後はすぐに口をゆすいで胃酸を洗い出す。どれほどの意味があるのかは、知らない。
あのひとのうちにはたべものがなかった。あったのは、ミネラルウォーターとチョコレート。ひどい偏食で、いっしょにいてこちらまで気の滅入るような女だった。そのくせ、あのひとはきれいだったからよくもてた。それでいて誰のこともあいさずに、あのひとはわたしばかりを可愛がった。醜い妹を、まるで飼い殺すように。
健康でいて良いことなど一度もなかった。両親はあのひとにかかりきり、親戚も学校の教師も、わたしを見ればあのひとの様子を尋ねた。しらない、と、あのひとに教えられた通り答えると、皆そろってため息をつく。「冷たいのね」と。
あのひとのうちには予備の布団がなかったから、泊まりの日は決まって同じベッドに身を横たえた。あのひとは下着で眠ることを好んだ。膝の飛び出た脚をわたしの脚にからめ、あたたかい、と言ってうれしがった。肉付きを揶揄されているようで、自分が膨らんでいくようで、あのひとのそばでわたしは歯を食いしばって眠った。あのひとはいつまでも笑っていた。
いくつもの時間が過ぎて、ある日突然、あのひとはまともになった。よく食べきちんと眠り、あっというまにこどもをもった。ただのうつくしいひとになったあのひとが、自分の咀嚼した「栄養価の高い」たべものを愛おしそうにこどもに食べさせた、そのときから、わたしは正しい生活を放棄した。
お願いだから、ちゃんとたべてちょうだい、と、母親然としたあのひとが言う。わたしはいびつに微笑んで、姪のベッドにもぐりこむ。
てのなかにきみの散る
Aの髪を切り取ったのは、なんということのない、レクリエーションのひとつみたいなものだった。Aはともだちをつくらないひとで、ともだちのいない女子高生なんてほとんど言語矛盾だと思い込んでいたあたしたちにとっては得体の知れないエイリアンみたいなものだった。あのころのあたしが、大江の「飼育」を読んでいたなら、黒人を飼おうって決めた村人のきもちがよくわかったとおもう。おそろしい、未知の、観察対象。
地理の授業だった。白地図に色分けをするっていうばかみたいな作業に、参加しているのはAくらいのものだった。あとはめいめい、鏡を見たり手紙を回したり。Aのゆびが、生真面目に色ペンを持ちかえるかしん、かしん、という音がいやに目立っていた。
あたしはほつれたスカートの糸を切ったあと、なんとなくハサミをもてあそんでいた。いまここで、手首にぶっさしたら、なんて、生まれ変わってもやらないだろう凶行を想像して喜んでいた。そして、ふと目に入ったのがAの、きちんとそろったえりあし。首筋にぽつりとふくらんだ虫刺されの痕から目が離せなくなって、そっと毛先を指でつまむ。気がつくと手の中に、こまかくて硬い髪の毛がいくつもちらばっていた。
凶行は格好の笑い話になった。けれど翌日、見事なほど剃り上げられたAの坊主頭を見てからは、だれも話題に触れなくなった。青々とした坊主頭の首筋に、治りかけの虫刺されの痕が滲むようにくっついていた。
あたしはそれから学校にいかなくなったので、Aの髪の毛がどうなったのかは、しらない。
マナビヤ
「おまえ、なにしにきた」「おまえ、なにしにきた」
こどもたちがわたしに群がる。幼いことを罪とするこの国で、五歳を超えたこどもらはみな囚人となって牢におしこめられる。
そこでこどもたちは「時間」を学び、「規則」を学び「社会」の真似事を強いられる。
身体がおおきいというだけで権力をにぎるこども。食事が口に合わなくていつまでもパンをもてあそぶこども。集団のまんなかに、はしっこに、すこしずつ彼らの「この先」が形作られてゆく。
「こどもじゃない」「へんなの」「えらいの?」「しらない」
わたしは声を上げられず、じっと身をすくめてうつむいている。わたしもまたおなじ罪をもっているはずなのに、身体がふるいせいで言葉がうまく通じない。
こどもたちは、わたしを排除するべきか崇めるべきか決めかねている。みなが一様に、終わりの鐘を待ちわびている。
museum
遠目に見れば、展示ケースのなかは空っぽだった。名前や日付の書かれたプレートだけが、しらじらとした明かりの元にさらされている。ガラスに手を触れないよう、腰をかがめてようやく中にあるのが魚の骨だとわかる。完璧なかたちの、あるかなきかの肋骨。
魚の骨をうつくしいとおもうような感性は育たなかったので、わたしはきっと一生飛行機をつくらない。それでもひとつひとつの骨格を丹念にながめてゆく。説明を読む時間のほうが長くなってしまうから、プレートは無視してゆくことにした。
通路片側のケースを一通り見てしまうと、突き当たりにひらけた部屋が見えた。いちめんが水に覆われ、深さのわからないそのなかをさまざまな魚が泳ぎ回る。かざられていた骨の元の姿だ、とわたしは直感した。
向こう岸で、こびとのように小さなおじさんが魚を丸呑みにする。ちゅるり、と飲み込まれたように見えるそれをまるで気にも留めないように、おじさんは宙を見上げている。扇形の尾が、おじさんのくちびるから突き出してひらひらと揺れる。おじさんがそれを指でつまんでゆっくりとひっぱりだすと、魚の肉はしゃぶり尽くされてきれいな骨にかわっている。おじさんは尾っぽも丹念にねぶり取った。
焼かないの。そう、おずおずと尋ねるわたしを、おじさんのうつろな目がじっと見つめ返す。おじさんにもまぶたはないようだ。
焼いたら、骨黒くなるだろ、とぽつりと呟いた。そして、どこか乾いて見える目をうごかして、視線を水面に戻してしまう。思ったよりやさしい声だった。
通い路
ここははじめてかい、と釣り糸を垂れた老人は言う。きみは話すことに慣れていないから、不躾にも老人の顔を眺めている。老人の片目は濁り、もう一方よりも開きがわるいようなのに、彼はそちらの目でじっときみの視線を受け止めている。ふ、ぃ。とやっと発話したらしいきみのくちびるは、縫い合わされたようにうまく開かない。
おまえさんは、そこか。話しにくい様子のきみをみて、眇の(すがめ)老人は要領を得たというように頷く。釣り糸の先で、川はまるで靄の流れるように白く、深さも、どこから来てどこに続くのかも、よくわからない。
ここはわるいところじゃない、けれど、長く居るようなところでもない。老人は訥々(とつとつ)と話し続ける。決心がついたら、この川に入りなさい。なに、すぐに慣れるさ。
老人の釣り糸がわずかに震える。靄のような水面から、するりと突き出したのは白く細い誰かの手。老人は背後に手を回し、取り上げたハサミでふつん、と糸を切ってしまう。
「さあ、はやくおゆき。どこにも、慣れるということはないのだから」
雨音
わたしは、虎になって死にました。そうあのひとは言う。虎に? 聞き返すわたしの声に、訝しがる様子はすこしもない。ここは、どこにもないはずの嘘の国。
こまかい雨は絶え間なく落ちてゆく。波紋をつくる地面がないので、それはまるで巡っているようにも見える。上から下へ、どこかからまた上へ。わたしたちにからだはないけれど、そばにいると信じることでなんとか存在を確かめあう。声はとても近い。
あなたは、物語の真似だと思うでしょう。あのひとは続ける。わたしは正直に、ええ、読んだことがあります。と答える。もしかしたら、答えるよりも前にきこえていたのかもしれない。身体がないとどうしても、わたしとあのひとの区別はつけがたい。
あれは私の話です。物語が、私を真似たのです。あのひとは言う。思っただけかもしれない。おなじことだ、言葉もまたわたしたちの外側にあり、わたしたちはそれよりもずっと奥の内側で語り合っている。
虎はたのしかったですか。ええ、とても。物語ほどひどくはなかったです。兎も、美味かった。あのひととわたしの声がまざりあう。わたしの想像はあのひとの声になり、あのひとのことばはわたしをかたちづくる。
こんどはなににうまれましょう。
きっと、虎よりもつよい何かに。
梨のつぶて
「たくさんのことを忘れてきたね」あなたは彼女の耳元に言う。ブランケットから覗く白い肩が、梨の実のように粟立つのをみつめている。あなたの怒りは的外れだ。あなた自身のからだはいま、あなたの寝室で正しく眠りに落ちている。怒りだけがからだをぬけだして、「あなた」として彼女の耳に呪いを吐く。
彼女の乱れた髪がシーツをすべる、細くかわいた音がする。怒りとなった「あなた」の声に、じっと意識を傾けている。彼女は言う。「手紙を書くわ、ロシアの物語くらい長いやつ」忘れてなんかいない。そう、つぶやく彼女の声はいつもより幼い。あなたも覚えているように、それは彼女が嘘をつくときのしきたりみたいなものだ。
あした目を覚ましたあともまた、あなたはねむる。あなたはわらう。自分からぬけおちたなにかを見つけないように。
彼女にももう見えなくなった「あなた」は、夜のすみで梨の実に歯を立てている。
酸欠
扉を開けてまず鼻をついたのは、わびしい水のにおいだった。低く唸るような音を立て、絶え間無く泡を吐き出すポンプ。帯のように青く光を投げかけるライト。玄関脇、という狭いスペースには不似合いな立派な水槽に、しかし生きものは見当たらない。
全滅したんだ、先月
聞けば、彼が家を空けている間に停電がおきてしまったのだそう。たったそれだけのことで、この水槽を彩った幾十もの魚たちがすっかり息絶えてしまうとは。
水草がうつくしい、というそれだけの理由で、住人のない水槽はそのままになっているらしい。ずいぶんと分厚く見えるガラスに触れると、指先があおく光に浸されてゆく。
存在をすっかり忘れられて、餌のなくなった水槽で自分の手足を食う蛸の話を読んだことがある。手足を食った蛸は器用に裏返り、内臓も食い尽くして消えてゆく。そうした、なにかみえないものがこの水槽のなかでわだかまっているような、視線だけがそこに残されているような、言いようのないたましいの気配がにおいとなってただよう。
部屋の中でなにかが光っていたり、音を立てたりしていると、うれしい
彼は言う。ひとつひとつ注意深く、嘘にならないよう言葉を選んでゆく。そうした慎重さが丹念に、わたしから言葉を摘み取ってゆく。
(わたしではだめなの)
わたしにもポンプがあればよい。この部屋では、息もできない。
一炊の夢
「わたし、もう枯れますわ」
花は言う。どこか聞いたような口ぶりだったので「百年待てと言うかね」とわたしは笑う。花は真摯な調子を崩さずに、いいえ、と答える。
「わたしはもうこれっきり。この先、お会いすることはありません。よく似た花は咲くでしょう、けれどわたしではありません」
「もしもわたしを可愛いものとおもうなら、どうか何にもわたしを見たりしないで。あなたがわたしの面影を見つけるたびに、正しいわたしの姿は薄れていくでしょう」
多弁な花は、まるで頭が重くてたまらないというように細い茎をたゆませ、萎びかけた頭をゆっくりと弾ませた。これっきり、これっきり、とうわ言のようにくりかえす。
「わたし、あなたをのろいます。これまできっと、幸せだったでしょう。これからはもう、そうではないのですよ。あなたを慰めたわたしは枯れてしまうのです。お可哀想ですけど、枯れるわたしのほうが可哀想。どうか、わたしを忘れないでくださいね」
天上から雨粒がひとつ落ち、開くように花は散った。
いつか居なくなるだろうきみの名を
いつか毒のある生き物を飼いたいと思っている。触れただけで死に至るような、猛毒をもった生き物。わたしは昔から動物に好かれるたちだから、きっとそれはわたしに懐くだろう。透明でだだっ広く、水のない水槽で飼いたいと思っている。餌は生肉をちいさくちぎり、長い箸をつかって与えたい。それは細い前足で、器用に肉を引きむしるだろう。捕食に夢中でいるうちに掃除を済ませ、水を新鮮なものに取り替える。水槽のなかはきっと、熱帯のようにあたたかい。
なにをかんがえているの
Mが耳元で囁く。拗ねるというにはあまりにも攻撃的な声。ゆめをみないで、ときっぱりMは言う。「わたしの知らないものを見ないで」と。やわらかく長い髪を垂らし、わたしの上にのしかかる。表情はよく、見えない。
昔から動物に好かれるたちだから、慕われたり妬かれたりするのは慣れていた。けれど、女の子に懐かれたのははじめてだ。Mの肩はちいさく、しんじられないくらいか細い。突き出た鎖骨の端はいたいたしいくらい。それでいて言葉はまっすぐで、わたしは言い返せたためしがない。
説明するまで動かない、と全身で迫るMを抱き寄せる。途端に力を抜いて寄りかかるから、わらってしまう。強くて弱い、Mはとてもとても女だ、と。
「いつか生き物を飼ったら、あなたの名前をつけるわ」
酔ひもせず
目を覚ますと老人の足元にいた。スカートの裾を払いながら立ち上がる。老人は釣り糸を垂れているけれど、その先は靄のようにかすみがたちこめているばかり。飲むか、と差し出されたミニボトルはふるいものらしく、ラベルがぼろぼろになって剥がれかけている。老人の飲みかけにちがいないそれに、一瞬の躊躇をおぼえつつわたしはほとんど慌てて口を付けた。ひどくのどが渇いていた。
唇にふれた途端、ヒリヒリとした痛み。お酒だ、と思うよりもはやく、わたしの手はボトルを傾けて喉にそれをすべり込ませていた。反射的に咳き込んで、零れた液体が胸までつたってゆく。甘い匂いがたちのぼり、胸の奥まで焦げ付くように熱が走ってゆく。涙が滲んだ。これが痛みなのか酔いなのか、ここに来てしまったわたしにはわからない。
「酔うも酔わないも、自分が決めるものだ」
老人はこちらを見ずにいう。黄色く濁って見える眇を(すがめ)いっそう細めながら、どこでもない場所ばかり眺めている。
飲み干してしまったことが気詰まりで、わたしはミニボトルを返せないままで居る。
ラヴレターもしくは遺書のようなもの
ほんとうのことなんて話したくもないくせに、どうして書こうとするんだ、とアオは言う。外は暴力的なほどあかるく、あそこにいけばなにも考えないで済むのだろうとわかる。
それでも、わたしは影がそのまま部屋を作ったようなうちのなかにいて、アオを手に便箋をにらんでいる。手紙をうけとってから二週間、返事をするには頃合いをすこしすぎている。
だまっていればいいじゃないか。やりすごせば、解釈はむこうのほうにやってくる。
アオは雄弁で身軽。わたしがそうするよりも先に、身をくねらせて便箋におおきくバツを書く。上の一枚をやぶりすて、わたしはまた新しい便箋をねめつける。
ふつうになんてなるなよ。
アオの脅迫はまるで遺言だ。
目を閉じる。ひらく。インクの切れかけたペンが、手の中にひそりとおさまっている。
わたしは下敷きをはさむことも思いつかないで、あのひとへの返事をしたためる。かたむいた日差しが、前略、の左下を焦がしている。
メグル
停滞した水は濁ってゆく。老人は下流にわだかまったあれこれを丹念に取り除き、そのささやかな流れを送り出す。老人が片手に持っている袋には、除かれたものがその都度たまってゆくはずなのだけど、どういうわけかちっとも膨らむ気配がない。巾着状になっているそれは、老人が無駄のない動きであれこれをしまいこむ度に、きっちりと口を絞られている。
川、というより、せせらぎ。そう呼ぶのがふさわしいのかもしれないほどの、あるかなきかの水の流れ。薄い青を水色と呼ぶのはなぜだろう。流れには色がないか、わずかに白く泡沫を浮かべてはきえてゆくだけだ。それなのに流れは徐々に細くなり、やがてほとんど止まってしまう。長靴を履いた老人が丹念になにかしらを取り除き、再び流れをとりもどす。
ぼくはしめった土に頬をぺたりとくっつけて、老人の堅実な作業をながめている。いつからこうしているのか、なぜ老人を見ているのか、どうしても思い出せないけれど、思い出せないのならばその程度だと思うことにしている。
老人は一日のおわり、袋のなかみをそっと振って耳を寄せてみる。かそけき声のするような、砂粒のようなひかりのふるような、そんな気配のするだけで実際にはなにもおこらない。それでいて彼は、じつにほっとしたような、みちたりたような顔をして袋の腹をなでさする。乾いた指の、布に擦れる音がして、ぼくのほうまでくすぐったいような気がしてしまう。
おいで。そう、老人はいつも僕をさそってくれる。夕(ゆう)餉(げ)でもごちそうしてくれるつもりなのだろう。だけど、ぼくはお相伴に預かったことがない。あれが彼の役目なら、ぼくにも相応のそれがあるのだ。
おやすみ、と老人の声がして、ぼくは瞼をそっとおろす。やがてぼくが、つぎの彼になるのだろう。
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