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birthday


きれーい、と川の向こうを指す子どもの手を母親が引っ張る。私はやさしい気持ちになって胸のなかで話しかける。おじょうさん、あれはラブホのネオンなのですよ。

私もそうと知るまでは、あのお城みたいなホテルに泊まりたいと言ってごねたりした。ジュ・テーム、こねこのベッド、FESTA、諳んじている店名を、連なって見える光のそれぞれに重ねた。団地の裏にあるこの土手は、年に一度だけ賑わう。遠くで打ちあがる花火がちょっとだけ見えるから。この日に帰って来たのは久しぶりだ。


きれーい、と今度は若い女の声がした。場所に不釣り合いな浴衣姿の女が、線の細い男のそばで熱心に川向こうを撮っている。ラブホ、ですけど。なんて言えないまま見ていると、彼女は顔の前に構えていたデジカメをおろして連れの男に何やら囁いた。

土手の上を走る車のライトが照らす彼女はきゅっと中心に寄った日本人っぽくない雰囲気の顔立ちで、ここがもしもっと浴衣の似合う場所だったとしても目立つだろうなと思った。彼女は人一人分くらいの間隔を空けて私の横に腰を下ろした。浴衣に構わず地べたにお尻をつけて座る。男がポケットからハンカチを取り出して、彼女を一度立たせると広げて敷いてあげた。


マー


懐かしい自分の声が頭の中で聞こえた。彼女の連れの男は、私の幼馴染だった。

私は幼稚園のときマーのことが好きだった。だけどマーはべつの子が好きで、私はその子と遊ぶときはマーを誘ったり、その子のハンカチを盗んできてマーに渡したりした(さすがにマーは困っていた)。その子の髪はいつもきっちり編み込みにされていて、ポンポンのついたゴムで留められていたのを覚えている。


マーの部屋は弟と兼用で、学習机ふたつに二段ベッドで出来た部屋は兄弟のいない私にとって衝撃的に狭かった。二段ベッドを珍しがる私を、マーのお母さんが嬉しそうに見ていた。


ヨウちゃん、見て


マーのお母さんはそう言って、兄弟ふたりのアルバムやどちらかがつけた壁の傷なんかを見せたがった。とても長い髪で、眼鏡をかけていて、よく貧乏くじを引いたマーのお母さん。人が良いせいで、町内会の役員も、保護者会の役員も、面倒な役目は全部マーのお母さんだった。だから家にいないこともしょっちゅうあったけど、マーのお母さんは私が髪型を変えたり新しいスカートを穿いたりするのを喜んでくれたから、制服が変わるたび家族の次にマーのお母さんに見せに行った。


中等部で着た夏服のセーラーは袖口が広くて、二の腕が細く見えるから特に好きだった。はじめて着たそれはのりが効いたままで、まだ固い袖口が腕にふれるときもちよかった。マーの部屋の机とベッドの間、私の体がきっちりおさまるスペースに嵌まるように寝転がりながら、何度も腕を挙げて袖口のかたさを愉しんだ。


マーはやさしいままだった。私を部屋に通した後、台所に行って飲み物とちょっとしたおやつを運んできてくれる。テーブルが無く、学習机はふたつとも散らかっているから、机の椅子にお菓子とコップを置いて私とマーはいつも畳にそのまま座った。だけどこんなふうに私がマーのぶんも場所をとっているときは、マーはベランダの窓に近い弟の机に座る。机の角に申し訳程度おしりを預けて外を見るマーを、寝転がった私が顎をのけぞらせてさかさまに見た。灰色っぽい空は時間をわからなくしていて、まだ帰らないでいいな、と決めた。


そのころ、新着メールは全部白井からだった。幼稚舎からの持ち上がりが多かった私立の初等部に入ったとき、幼稚園が一緒だったというだけでちょっと親しげに話したこともあったけど、それが白井にとって「自分を好き」という意味になるとは思わなかった。

中学に入る前の春休みにメールで告白されたとき、好きじゃなかったけど好かれてるのが嬉しくて曖昧に断った。『気持ちは嬉しいけど、男の子と付き合うとかそうゆう自信ないねん(><)』みたいな返信がよくなかったのかもしれない。どこで覚えたのかわからない甘っこい言葉のメールが春休みの間続き、初めは追われてる感じに浸っていた私もだんだんいやになってきて『好きな人おるから』とウソを書いた。

すると一転してぶっころす系のメール・着信の嵐になった。一学期が始まってアドレスを変えてからも着歴は無い日がなくて、どんなルートを使うのかは知らないけど新しいアドレスにも必ずメールが届いた。

告白メールも最初の甘かったメールも恐喝っぽくなったメールも全部読み聞かせたのに、マーはどれにも

すごいな

と言うだけだった。

携帯が震える。サブディスプレイを確かめる前に手のひらで隠した。


なんか、あたし男ってあかん、好きくないわ
好きくない、って
言い方へん?
言うけどな


すきくない、すきとちゃう、すきやない、きらい……と呟く私を跨ぎ、マーは机にあった空のコップを取り上げる。マーがなんとかしてくれたらいいのにって、私がそう思っていることを知らないマーは

だいじょうぶやって多分

と台所に行ってしまう。私は寝がえりを打ってベッドの下を覗き込んでみた。期待しないように心がけて見たけれど、それを裏切らずベッドの下に何もいいものは見当たらなかった。少しの落胆と安心に体を起こしたとき、机の下の隙間に何か滑り込んでいるのを見つけた。

埃にまみれて出てきたそれは、卒園アルバムだった。紙のケースから引っ張り出すと、立派に装丁された中身が意外と重たく右手に乗っかった。「うめ組」と見出しの出たページを開き、園児たちを目で選り分けて見つけたポンポンは華奢で色が白く、やっぱり編み込みにポンポンがついていた。けれど私の記憶にいる「マーが好きだったポンポン」には敵わない。

たいした女じゃないな、と胸のうちで呟いて、そう思ったことに自分自身で驚く。相手は園児だ。はずかしいような気持ちになって、アルバムをもとのケースに押し込んだ。

マー

台所から戻らないマーに声をかける。換気扇の下で煙草を吸うマーの長い背中は、後ろめたさのかたまりを肺いっぱいに吸い込んで膨らむ。ちいさいころのマーがお母さんにそっくりだったことをなんとなく思い出した。
高校に入る年の春、私と母は祖父母を残して団地を出た。

声をかけようか気づかないふりをしようか、考えていると土手の上の道路にパトカーがやって来る音がした。拡声器から聞こえる声は割れていてよく聞こえない。

マーの方にさりげなく視線を戻すと、彼女が持参した紙袋から白い箱を出していた。促されたマーが被さる形の上箱をゆっくりと持ち上げると、出てきたのはホールケーキだった。いかにも手作りといった感じの、不ぞろいなクリームの装飾に大きすぎるイチゴ。真ん中には、ご丁寧にマジパンのクマまで乗っている。手書きでHappyとだけ大きく書かれたチョコのプレートが箱の角に落ちていた。彼女は躊躇無く箱に手を突っ込んでそのプレートをつまみあげ、マーの口元に運ぶ。花火が始まらないせいで、何を見たらいいのか分からない。


高校で初めての夏休み、帰省した私はマーをこの花火に誘った。マーの家なんて目をつぶっても行けるくらいよく知っているのに、わざわざマーをうちの玄関まで迎えに来させたのを覚えている。これからマーが来るよ、と私は祖母に言ったけど、祖母は何を勘ぐるでもなく、そうなん、と言っただけだった。祖父が夕刊を読みながら、あれ持ってけ、と仏壇のすいかを顎で指した。

私たちは土手に行く前にわざわざマーの家ですいかを食べた。どんなに日が長くても、団地は時計のとおりに夕方のにおいをさせる。土手のそばにあるうちの棟から見て、マーの家がある棟は団地の中央にある公園のさらに向こうにある。公園を抜け、棟と棟の間を通り、ぐるぐると階段を上って4つの踊り場を過ぎた後、ようやくマーの家の前に着く。うちより一つ階が上だから、ここまでくると地面がうんと遠く見えた。何重にもペンキを重ね塗りされた、うちと同じ色の野暮ったいドアを見上げると表札の名字が変わっていた。私が目で問いかけると、マーは

親父、もうおらんねん

となんでもないふうに言う。私は、優しそうでその時のマーみたいにひょろりと背の高かったマーのお父さんが出て行ったことよりも、マーがお父さんを親父と呼んだことに驚いた。

家に入るとマーのお母さんも弟も居なかった。両手持ちしていた東京ばな奈を置いて、無くなってしまった二段ベッドの跡地に座る。

昨日から、帰省してる
マーの誕生日やのに?
俺がそうしてってゆった

まな板をシンクに乗せる、ごぅん、という大きな音がした。

あっちのほうが花火、近いから行けばって俺がゆった
なんでマーは行かんの
シマモトが来るってゆうから

私が何も言えないでいると、



とマーが言った。色っぽくてくだらない冗談なんかより、シマモト、という響きがちょっと良かった。


俺、今教習所、行ってるから。バイク。車運転する奴おらんから、うちのおばちゃんが全然遠出せんようになって。車の免許とろー思たけど、まだとれんし。なんか……

まな板に乗ったままのぶつ切りにされたすいかと、皿と、かたく絞った布巾がほかよりも青い畳の上に直接置かれた。私はマーが煙草をすってくれたらいいのにと思った。
すいかを手に取りながら

親孝行

と言って涙をぬぐう真似をしてみせると、マーはすいかでいっぱいの口から

そんなんとちゃうけど、

と言葉を漏らす。口の端から零れた汁を親指で拭い、布巾にこすりつけながらもう一度

そんなんとちゃうけど

と繰り返した。けど、の先が続かない。
そんなことあるはずがないのに、私は言葉を見つけられないマーが苛立って怒り出すのではないかと心配になった。マーが怒りだしてスイカを流しに捨てるところ、マーが怒りだして私を殴るところ、色々なパターンを想像したけれど結局マーはなにもしないまま、次のすいかにかぶりついた。マーの歯が食い込んだすいかに、指を押し付けて種を抉り出す。本当は、苛立って怒り出すマーが見たかったのかもしれない。

知りたいことを真面目に聞くのはとても難しいことだったから、私は茶化した口調で

アーユーハッピー?

と言ってみた。覚悟が足りない冗談に、マーは少し間を空けた後

Sure.

と綺麗な発音で答えた。


誕生日おめでとう

浴衣の彼女は声もかなり浮いていた。ハッピバースデイ、トゥーユー、という手拍子つきの歌声が、他の話し声とまったく違うリズムで喧騒の波を走っていく。まるでマーの誕生日を宣伝するみたい。

歌い終わってから、ロウソクを一本ケーキに突き刺して火をつける。消すタイミングなんてどこにもないのに、彼女はきれーい! と火を見つめて笑っている。ラブホを撮りまくっていたさっきの様子を思い出し、それからポンポンのハンカチを押し付けられたマーの顔も思い出した。

短いロウソクが半分くらいまで溶けたころ、ようやく満足したのか彼女はマーにロウソクを消してとせがんだ。マーが望みどおりに火を吹き消すと、彼女は盛大に拍手をした後ロウソクに手を伸ばした。あ、と私の胸のうちの声と実際にマーが言った声とが重なるより早く、彼女の細く白い指はロウソクのとろけた場所をしっかりとつまんだ。

小さく悲鳴を上げたあと、彼女は手にとったロウソクを放り投げる。マーがきちんと吹き消したその一本のロウソクは草の間で固まっていった。彼女とマーは何もなかったみたいに、真ん中に穴の開いたホールケーキをプラスティックのフォークで食べ始めた。彼女がデジカメを自分たちに向けてシャッターを切る。なかなかうまく撮れないらしく、眩しすぎるフラッシュが何度も瞬いた。


写真撮りましょうか。かすれた声は歓声に掻き消された。遠くの空に花火がいくつも打ちあがっている。やっと届くかすかな低い音。いつの間にか出来た鉄塔越しに見る花火は、思い出よりもずっと小さい。


土手の端に停めた自転車に、マーが手を掛ける。二ケツかな、と思ったけれどマーが自転車を押して歩き始めた。彼女の手が、マーとの間を繋ぎたそうにぶらぶら揺れている。置き去りにされたロウソクにはクリームがべったりついていて、早くもアリがたかっている。目を閉じると、瞼の裏を光の筋が泳いだ。マー。私はまだ、綺麗な発音が出来ない。

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