雨に咆哮
学校から駅までを結ぶ長い長い帰り道、リリコと二人音楽を聴いて歩いた。リリコは私よりずっと背が高いから、歩幅がずれるたび分け合っているイヤホンがたわむ。外れそうになるそれを中指で抑えて、重い鞄を肩に掛けたり肘に掛けたりしながらよたよたした足取りで帰り道を進んだ。
醜さのあまり群れからもれたライオンが、さみしく死んだあと花になりましたっていう悲しいくせに軽快なリズムの音楽は、リリコの好きな歌。私には歌詞の結末が美しすぎてとっつきにくい感じだけど、リリコが嬉々として見せてくれる歌詞カードにはさみしそうなライオンのデッサンが付いていてそれだけがちょっと好きだった。 曲が終わるとリリコはすぐまたはじめからその曲を流す。もう何度目かの同じイントロを聞きながら、私は可愛くないライオンを見つめていた。するとそのライオンの目の下に粒のような水滴がひとつ落ちて、それが雨粒だと気づく間もなく霧みたいな雨が降ってきた。
リリコは歌詞カードを閉じて鞄にしまい込み、奥から折り畳み傘を取り出したけど、ふと私と目を合わせてそれをしまった。私も同じように考えていたので、手首にかかっている傘を開かないまま、音楽を聴き続けて歩いた。傘が無いらしい人が何人か、私たちの横をものすごいスピードで駆け抜ける。跳ね上がった水がこちらにかかっても気にならないくらい体は濡れていったけど、私たちはゆっくりと歩いた。ライオンが死ぬところで雨脚が強くなり、私たちはもっともっと嬉しくなった。荷物さえなければ、このままどこまでも濡れて歩いていけそうだった。すっかり耳に付いた歌詞を、雨音に隠れてちいさな声でうたった。
駅に着くと、リリコはハンカチで濡れたイヤホンをぬぐった。リリコが体をふかないのを見て私は自分が使った後のタオルを差し出したけど、リリコは受け取らずに鞄から自分のタオルを取り出した。
「私、生理の時だけキヨがものすごく欲しくなるの」
体育の後、自販機が並んだ狭い廊下の一角で、リリコの言葉は私の背中にぽとりと落ちた。伸ばした手の先にあるペットボトルを取り出すのも忘れて、私は間抜けな姿勢のままで振り返る。リリコはちょっと微笑む。
「別にレズとかそーゆーんじゃないけど」
いやそうなのかもしれないけど、と続けて、言葉を選ぶように宙をみつめる。でもとにかくね、キヨのことエッチな意味でいいなぁって思うのは、生理のときだけ。
ガタン、と大きな音をたててリリコの傍にあったドアが開き、その向こうの生徒ホールから友達連れの女の子たちが何グループか私たちの間を駆け抜ける。自然と、私たちは話を中断してただ見つめあう。
リリコとは一年のはじめから仲が良かった。高校に入って、急に大人びてしまった周りと比べてリリコがあまり垢ぬけていなかったのが良かったのかもしれない。休み時間ごとに言葉を交わし、昼休みは机を寄せ合ってお弁当を食べる。ごくありきたりな友達関係を持って、私たちはクラスの隅で居場所を作っていた。
二年に上がるクラス変えの時、私は在籍していた選抜クラスから落ちた。報告すると、仕事帰りの疲れたママはこちらを見もせずに「そう」と言っただけだった。ママが話すとき私を見ないのは、パパに似てきたからかもしれない。とにかく、クラス落ちに関しては特に不満もショックもなかったし、どちらかというと知らない人間ばかりに囲まれて新しいスタートを切れることが楽しみだった。現実は、ほとんどが去年のクラスの持ち上がりで同じ顔ぶれの集まっていた新しいクラスにうまく入れず、選抜クラスに残ったリリコのところに通って休み時間を過ごす毎日だったけど。最初の授業から豪快に騒ぎ立てる新しいクラスメイトたちの姿は、私にとって言葉の通じない怪物のように見えた。
新しいクラスには茅ヶ崎清美がいた。茅ヶ崎清美もまた、去年は選抜クラスにいた私の仲間だったけど、私は一度も話したことがない。休み時間、厚い瞼をさらに伏し目がちにして、茅ヶ崎清美はいつも机を睨んでいた。生徒から愛称で呼ばれている人の好い担任でさえ、茅ヶ崎清美にどう声をかけるべきか悩んでいたみたいだった。リリコがそばにいなければ、私もたぶんそうなるのだろう。
体育の後、制汗スプレーでいっぱいになる教室がいやで外に出た。休み時間に私を訪ねてきたリリコは、ドリンクを選ぶ私の傍でしばらく立ち止まったあとおもむろにそう言ったのだ。私、生理のときだけキヨがものすごくほしくなるの。
予鈴は少し前に鳴っていた。人気のなくなった自販機の前で、私とリリコの不思議な沈黙はつづく。
「好きなの?」
自分のことなのに、まるで他人事のように尋ねたのは私が動じていたせいだ。
リリコはうーん、と悩ましげな声を上げ、首を傾ける。校則でいつもきつくひとつにしばっている髪をほどいて、また結び直す。耳の後ろから零れた横髪がリリコの表情を隠している。
「生理のときって、どうでもいいことで悲しくなったり、イライラしたり、するじゃない? それってホルモンがそうさせているんであって、あたしの気持ちとは無関係なの。あってないようなものじゃない?」
同意を求めるように尋ねられて、私の困惑はさらに増した。遅生まれの私はとうに十七だったが、初経を迎えていなかった。
あってないようなもの。そう言いながら、それからのリリコは私に対して遠慮がちになった。帰り道、イヤホンを手渡すにもどこかすまなそうな、照れたような笑みで「聴く?」といって差し出した。私が片耳にイヤホンを収めたのを見届けて、リリコが聴かせたい曲を選ぶ。流れ出した軽快なメロディと醜いライオンのストーリー。いつまでもそろわない歩幅。雨と風の吹き込むホームで、話題を選んでいるらしいリリコの思いつめた眼差しを眺める。
結局その日は特に言葉を交わさないまま、私は家の最寄りの駅に降りた。ショッピングモールがあるこの駅でリリコもたまに降りるけど、今日は降りずに帰って行った。
指定の革靴は水をたっぷりと含んでいて重ったるい。よれたスカートのひだを払いながら、ふと顔を上げると見覚えのある後姿があった。階段を駆け上り、回り込むようにして顔を覗く。一瞬驚いたように目を見開き、次に「ばれたか」と笑うその男は笠原だった。笠原は中学で唯一私が気安く口をきけた男で、恋愛とは全く関係のないところで気に入っていた。久しぶりに会った笠原は相変わらずの野暮ったさで、あごの髭すらもところどころ剃り残しているひどい有様だったが、背がぐっと伸びていてそれだけでなんだか頼もしくなったように見えた。本当はひどいくせのある髪の毛も、短く切っているのがよく似合った。一重の目をうんと優しく細めて久しぶりーと語尾を伸ばす。
「卒業以来だね」
そう言われて、私はふと違和感を覚えたが、そうだね、と曖昧に答えて、私たちは並んで改札を抜ける。同じ出口に向かって、私が手首にかけた傘を開くと、笠原は傘を持っていなかった。入れていくか置いて行くか迷ったけど、それを悟られないうちに私は傘を閉じてその場に留まった。雨は、まだ弱くない。
学校のことを適当に話題に出しながら、私は頭の中で笠原といた中学時代のことを思い出す。笠原といると、いつもこうだった。自分から話題を出すことが苦手な笠原に、私から色々と水を向けながら、頭ではずっと違うことを考えていた。違うこと。かつてのそれは周りの視線に対する恐怖だった。
私と笠原が付き合っている。たぶんよくある話であろう周りの勝手な憶測は、私にとって冷やかし以上の意味を含んでいた。それは、私と笠原があまりにもマイナスな方向に釣り合っていたからだ。私は、どうしようもないコンプレックスとそれを受け入れきれないプライドを併せ持っていた。自分に自信を持てないくせに、あまりにも垢ぬけない笠原と同列に並べられることが嫌だった。自分に好意を寄せているかもしれない男といるのは気分が良かったけど、日に日に興奮は冷めてゆき私は笠原から離れていった。それは卒業よりもずっと前のことだった。
「笠原、私に気づいてたんでしょう? 声かけてくれたら良かったのに」
目を心持ち大きく開いて、記憶よりもずっと遠くなった笠原の顔を見上げる。口の中で言葉を転がすように、へんな笑い方をした後笠原は視線をそらした。
「美人がお前のそばにいたから、話しかけづらくって」
笠原の慣れない冗談は、私の胸の奥のほうにまともに入って行った。私はなんでもないように笑い、ごく自然な仕草で傘を開くともう殆ど雨の降っていない外に向かって歩き出した。足は次第に歩幅を広げ、傘の柄を握る手は細かく震えた。
リリコの顔を頭に思い浮かべる。たしかに美人かもしれない。よく見ると鼻は細くしっかりとした鼻筋が通っているし、目は小さめだけれどまぶたが薄くて、奥二重の線がきれい。おまけに色が白くて、まつ毛がくっきりとした濃さで目尻のはしまで縁取っている。こんなにも細かく顔が思い浮かべられるのは、私がいつも心のどこかで自分とリリコを比べていたからだろう。そしてこれまで平気でいられたのは――
思わぬ審判を笠原に下されて、どうしてか私の心はリリコへの憎しみに満ちていった。頭の中に、醜いライオンの歌が駆け巡る。
「私、生理の時だけキヨがものすごく欲しくなるの」
そう平気で言ってのけたリリコに、驕りを見たと思った。
私がリリコを避け始めると、リリコは私に嫌われまいと面白いくらい躍起になった。朝私を待つリリコの前を通り過ぎるたび、教室に訪ねてくるリリコを避けて手洗いに立つたび、リリコの心が死んでゆくのが見えた。それでいて、リリコの好意を離さないために私は時折リリコに優しさを与えた。それはたまに挨拶を返すとか、リリコの視線に目を合わせるだとかそういったささやかなものではあったけれど、傷ついたリリコはそれだけで十分嬉しそうな微笑みを返し、はしゃいでみせた。私はリリコを手に入れた。
自分の思い通りの人間がいる。その絶対の自信は、私の周囲に対する恐怖心をあっさりと踏みこえ、私は周りの人間に馴れていった。怪物のように思えていたクラスメイトたちは、近づいてみるとなんてことはない、リリコと同じ女たち。それは私にとっていつでも所有できるものだった。私がクラスに溶け込んだころ、たった一人の余り者になった茅ヶ崎清美は学校に来なくなった。
やがて私は笠原も手に入れた。試験期間に入り、多くの高校生が同じ時間帯に帰宅する時期だった。さまざまな制服で溢れるホームで、人ごみの中から私を見分けたのは笠原の方だった。気安さの欠けた分色っぽくなった口ぶりで「おまえ、女っぽくなったな」と呟いた。私は有頂天だった。
はじめての行為はそれからすぐの夏休みだった。私は、はやく彼のものになりたくて焦っていた。未だに迎えていない初経よりも早く、男の手を借りて大人になりたかった。その日、既に通い慣れはじめていた笠原の部屋で、私はリリコが言った言葉を教えた。笠原は少し考えたあと「キヨ、今生理?」と尋ねた。
「違うけど」
どうして、と期待が伝わらないようにわざと投げやりな調子で尋ねると、笠原は予想外の真面目な声で「正直、そういうことをしたいって気持ち俺にもあるけど、それがあってないようなものでしかないんなら、俺はしたくない」と言った。
私は苛立った。笠原にそんな誠実さは求めていなかった。彼はただ私を求めてくれさえすれば良かったのに、そんな思考のあることがわずらわしかった。泣きわめきでもしてやりたいのをうんとこらえて、私は精一杯の色目で笠原を誘った。リリコの言葉も繰り返した。まるで、私がリリコに取られてしまう可能性を匂わせるかのように。
言葉と少しの手先を使うと、笠原は簡単に落ちた。彼はどこか芝居じみた不器用さで私は自分のものだということを囁き、行為でそれを示そうと私を床にぎこちなく横たえた。避妊具がないと慌てる彼をなだめて、落ち着いた仕草で私は彼を最後まで受け入れてみせた。私は自分を愛してくれる存在を離したくなかった。行為の後、血に混じって中から零れてくるそれをティッシュで拭いながら、経血もきっとこんなものだろうと思った。そして、リリコからついに自分自身を奪ったことに静かな興奮を覚えていた。
しかし夏休みが明けた九月、リリコの隣になぜか茅ヶ崎清美がいた。クラスも違うくせに、余り者同士がくっついているなんてあまりにも惨めだとはじめ私はせせら笑ったが、それがかつての私と笠原と同じであることにうすら寒い思いがした。
はじめての行為以来、笠原との関係を確かなものにしようと夢中になっていた私は、休みの間リリコの関心を惹いておかなかったことを苦々しく思った。私の中でリリコは、休みのもてあます時間の中で、とうに他人のものになった私に焦がれて過ごしていたはずだった。
昼休み、リリコと茅ヶ崎清美は向い合せに座って、鞄の中に隠したプレイヤーからイヤホンを伸ばして片方ずつ分け合っていた。傍に近づくと、あのライオンのデッサンと目が合う。リリコの背後に立った私に気がついて、茅ヶ崎清美が顔を上げた。
「リリコ」
リリコの肩が跳ねる。きつく束ねたポニーテールの両側に覗いた耳たぶが揃って赤くなる。前の方を見遣ると、茅ヶ崎清美は私を見つめていた。長い前髪に隠れた茅ヶ崎清美の目と視線が重なったとき、私の息がひゅっと気管をすべり落ちた。茅ヶ崎清美の目は、明らかに一学期とは違うかたちで大きく見開かれていた。
「……茅ヶ崎さんと仲良かったんだ」
言葉はリリコに向けたものなのに、答えたのは茅ヶ崎清美の方だった。茅ヶ崎清美は睨むような視線を放ったまま、夏期講習を受けた予備校が一緒だったのだというようなことを音量の小さい早口で言った。リリコが予備校に通っていたとしてもおかしくはないのに、初めて知るその情報を私は舌打ちでもしたい気持ちで受け止めた。机の上に広げられた、歌詞カードに目を落とす。ライオンの目の下にうっすらと残った雨の痕を、指でなぞってその場から離れた。茅ヶ崎清美の目は、私にもう何も言わせなかった。あの視線から解放された安堵に隠れて、濃く煮詰まったような羞恥がろっ骨を押し開く。夏のあいだじゅうずっと体の中を占めていた優越感や興奮が、あの視線の前ですべて霞んでいった。
後ろから、追って来る足音には気付いていた。あの日リリコが私を欲しいと言った自販機の前に辿り着いたとき、振り返るとそこにはやはりリリコが立っていた。泣くかもしれない。そう思っていたのに、リリコを見て湧き上がってくるのはやはり言いようのない憎悪と傷つけたいという欲望だった。私は、リリコを取り戻すチャンスを永遠に失った。
「キヨ」
リリコは私の機嫌を伺うように名前を呼んだ。そばの生徒ホールからは誰も出てこなくて、通り過ぎるのは風ばかり。私たちの間に隔たっているものは見えるものじゃない。沈黙は続く。いまにも泣きだしそうな声で、リリコはもう一度私の名を呼んだ。
私はリリコにたった一言、言葉を投げた。それは、リリコの想いを否定し、リリコと茅ヶ崎清美の関係をいやらしく愚弄し、何より私自身を傷つける言葉だった。リリコの顔は一瞬で青ざめ、すぐさま赤くその色を変えた。涙の溜まった瞳がゆがみ、怒りでいっぱいになっていく。その目はうつくしかった。
どうして私ばっかり醜いんだろう。
満たされない。報われない。リリコはどうなったって綺麗なままでいられるのに、どうして私は綺麗じゃないんだろう。私はリリコの目から視線を背け再び吐き捨てた。
「傷の舐め合いしてて、楽しい?」
三年になると、皆それぞれ自分の進路に手一杯で他人に干渉することが減り、私にとって過ごしやすくなった。私は選抜クラスに戻ったが、今度はリリコがクラス落ちをしたらしく同じ教室にはいなかった。茅ヶ崎清美は不自然に大きな目を持ったまま、リリコの傍にいるのだろう。
笠原は、いつしか私にとって実体のないイメージのようなものになっていた。私が執着しているのは彼自身ではなく、自分を愛してくれる恋人がいるという条件だけなのではないか。私が想い続けていたつもりの彼は、いつだって私の理想をなぞった姿に過ぎなかった。
そんな彼を思い続けることと他の人を好きになることとは何が違うのだろう。そう思い始めたとき私は携帯のアドレスを変え番号を変えた。笠原は何度か駅で待ち伏せをしていたけれど、やがて姿を見せなくなった。あってないようなもの。リリコが、笠原が言ったこの言葉を、自分の部屋でひとりつぶやく。重く痛む下半身を引きずるようにベッドに横たえて、私は天井を睨んでいた。まるで短い夢のようにいなくなった、かつて私をすきだった二人。
ママの帰ってくる音がした。玄関のほうに顔をのぞかせると、濡れたコンクリートのにおいがする。おかえり、と声をかけたけど、ただいまと答えるママはやっぱりこちらを見なかった。私がもし茅ヶ崎清美のように顔を変えたなら、ママは私を見てくれるだろうか。それか、リリコに似た容姿なら。リリコ。私の中で、リリコの好きなあの歌が蘇る。
私は死んでも花になれない。