【短編小説】また雨が降ったら
わが心を打ち明ける友を持たない人々は、己れと己れの心とを食う人食い鬼である。
——フランシス・ベーコン「随筆集」
* * *
雨音がパチパチと木霊(こだま)する中、賽銭箱の置かれた階段に腰をかけて本を読んでいた。二百段ないくらいの石段をのぼった先に佇(たたず)むこぢんまりとした神社は、自分だけの世界を作るのにはもってこいの場所だ。帰ったところで家には誰もいないし、ここじゃなくても良いのかもしれないが、僕はこの場所を気に入っている。
「空木(うつぎ)君だよね? ここで何してるの?」
突如現われた少女はそう声をかけてきた。読書に夢中だったことと、降りしきる雨で人の気配に気がつかなかったのだろう。
ここには僕以外の人間が訪れることはまずない。だからこそ、僕はこの邪魔者に驚き、すぐに嫌悪感を覚えた。
「べつに」
無愛想なのは元からだが、今はここからいなくなって欲しいという一心で努めて無愛想になることにした。大抵の人間は、つまらないと感じればその場から離れるものだから。
だが、彼女がこの場から立ち去ってくれる様子は一向にない。周りをキョロキョロと見回したり、目が合うとニコリと笑ってみせたり。
彼女が誰なのかは、顔を見てすぐに分かった。子犬のようなあどけない顔で、健康的な体型だが弱々しく、腰より高い位置にある髪の色素は綺麗な栗色をしている。そして、僕とは正反対の世界に生きる人で、たぶん、僕とは正反対の価値観を持つ同じ高校のクラスメイト、加々地未結(かがちみゆ)。
男女ともに人気があり、僕からしてみれば八方美人という言葉がとても似合う人間だ。良い意味でも、悪い意味でも。
「その本、面白いの?」
そう言いながら、僕が読んでいた本を覗き込んできた。せっかくの一人を感じられる空間にやってきたこいつは、侵略者か何かなのだろうか。彼女との関係性なんてものは皆無なわけで、失うもののない僕は嫌われたって構わない。そんなことは、この環境を守ることに比べれば実にちっぽけなこと。僕は彼女を無視をすることにした。
彼女は僕からの返答を諦め、再び辺りを見回すようになった。雨打際(あまうちぎわ)がぽたりぽたりと音を立て、この沈黙が時間の静止を意味しているのではと錯覚させる。
「ここ、すごく落ち着くね」
「君さえいなければね」
わざと皮肉を口にするが、彼女は「酷いこと言うね」と、シャボン玉のような笑い声を正面から浴びせてきた。やはり僕は彼女が苦手だ。
「それじゃ、嫌われ者はそろそろ帰るよ。またね」
彼女はそう言って去っていった。僕は侵略者からこの場所を守り切ることができたと心から安堵した。
パチパチと木霊する雨音、ページをめくるたびに立ち上がる紙の香り、ゆったりと進む時間。そんな静謐(せいひつ)の中、僕は自分だけの空間に戻ることにした。
* * *
幼い頃に永遠を誓ったはずの両親は離婚し、押し付けられる形で父と共に生活することになった。兄弟もおらず、遊び相手のいなかった僕は必然的に一人遊びが得意になっていった。
そんな僕には友達ができなかった。幼少期から妙に大人びていて気持ちが悪いだとか、周りの子供達と違うだとか、そんなことを言われていた気がする。
僕は僕で周りの子供達を見下していたし、こんな奴らと関わっていても何も変わらないだろうなんて思っていた。今も友達なんているわけもないが、べつに不自由はしていないし、今までの行動が間違っているとも思っていない。
高校での僕は、教室か図書館で本を読んでいるだけのモブに徹していた。
教室というのは協調性のない人間は爪弾かれてしまう場所だ。その場の空気に馴染むことを求められていて、話題に対して的確に反応できないと白い目で見られる。僕のような人間には、最も適さない場所だ。
二年生になったばかりだが、話しかけてくる人間もいないし、一人だからといじめの対象になっているわけでもない。誰の眼中にも入らない存在、そんな立ち位置はとても居心地が良いし気に入っている。
そんな僕とは正反対の世界に生きる人々を観察してはあーだこーだと頭の中で考えるのも僕の日課で、その中の一人に先日現われた加々地未結がいる。
あの日以降、学校で会うことはあっても向こうから話しかけてくることは一切ない。あれは一体何だったのかと考えていたこともあったが、べつに危害が加えられたわけでもないので、そういった心配をすることもなくなっていた。
ただ、自分自身が一個人に対して興味を持つことは珍しく、困惑を隠せないのは事実だ。恋愛的な感情ではなく、僕の知り得ない何かを知っているのではないか、という単純な好奇心だ。そんな自分に腹が立つのは、このモヤモヤを解消したくて仕方がないからだと思う。
「へぇ、そうなんだぁ」
彼女は興味もないであろう話に相槌を打っている。本当に興味がないかどうかは知らないが、少なくとも僕は全くもって興味を持てない。あの日見せたシャボン玉のような笑顔を振り撒き、それが破裂したかのように辺りに伝播していく。
「それでさ」
とりとめもない話は続き、会話という蜘蛛の囲(い)がそこら中に張り巡らされている。あの場から逃げ出すのは至難の技だろうなと考えていると、加々地は「ごめん、茜ちゃん達に呼ばれちゃった」と一言発して、べつのグループのもとへ向かっていく。またべつの蜘蛛の囲に入っていった彼女は蝶か何かなのか。いや、彼女自身がこの教室に糸を張り巡らせた蜘蛛そのものなのかもしれない。
正直、加々地のことは何も分かっていない。同じクラスの人気者ということだけは誰が見てもよく分かるが、彼女の内面は僕の想像力だけではどうにもなりそうにない。かといって、僕に話しかける勇気があるわけもなく、ただいたずらに時が過ぎて行くだけだった。
放課後、廊下からツンとした視線を感じた。目をやると加々地が僕に対して少し不機嫌そうなふくれた顔を向けており、目が合うと教室を出ていった。そんな顔をされる覚えはないが、なんだか嫌な予感がした。
下駄箱から取り出した靴に足を通して傘を広げる。今日は朝から雨が降っていたので、久々に神社に行くことにした。
心地の良い雨の音が耳を撫でる。全ての雑音を消し、自分だけの世界に入りやすくしてくれる。早くあの場につかないかと考えているだけで、不快な気持ちが徐々に和らいでいくのを感じた。足取りも軽くなり、今にもステップを踏み出しそうな気分だ。それだけ、あの場所は僕にとっての楽園なのだと改めて感じる。
神社につくと、流造(ながれづくり)の屋根の下に一つの人影があった。
「やっと来た」
ため息混じりの彼女は、こっちに来るようにと手招きをしている。僕は落胆した。撃退したはずの侵略者が再び僕の目の前に現われたのだから。
頭の中で、今すぐ帰ったほうがいい、いや、彼女の話を聞いてみるべきかも、でも面倒事はゴメンだ、といった考えがぐちゃぐちゃと混ぜられていく。すると彼女は僕の方へ走り寄り、手を掴んで屋根の下まで引っ張っていった。
「ねぇ、なんでここに来なかったの? あれから毎日来ていたのに」
あの日の最後に、またねと言っていた加々地を思い出す。あれは学校でという意味ではなく、またここに来るよということだったのか。
「雨の日にしか来ないから」
「雨の日に来て何をしてるの?」
「誰も来ない場所で、自分の好きなことをしてる」
「そっか、じゃあ私すごく悪いことしちゃってるね」
そういう彼女は幼い子供のようにあどけなく笑い、僕の肩を叩く。悪いことをしていると思うのなら、さっさとこの場から去ってほしい。
「わざわざ僕なんかに会いに来るなんてどうかしてるよ。何が目的なの?」
友達一人いない僕に構うなんて、よっぽどの理由がなければ嫌がるのが普通だろう。クラス委員長であったりすれば話しかけるくらいならあるかもしれないが、彼女は単純に人気のあるクラスメイトでしかない。理由なんてものは見当もつかない。それ故に恐怖心を抱きさえする。
「いつも一人でいられる空木くんが、羨ましく思えてさ」
嫌味か? 他人からしてみれば、一人で過ごす僕なんかより、多くの人に好かれ、愛されてきた君のほうがよっぽど羨ましく思われるだろう。それを羨ましいなんて本当に頭がオカシイのではないだろうか。誰だって好きな生き方をある程度選べるのに、その道を選んだのは自分自身じゃないか。結局のところ、誰もが無いものねだりをし続けて生きているのだろう。
そんなことを考えていたら彼女が再び口を開いた。
「聞きにくいこと聞いてもいい?」
「なに?」
「私も雨の日、ここに来てもいいかな」
そんなことだろうとは思っていた。二度も僕の前に現われ、遠回しではあるがここに来るなと伝えていたにも関わらず、今もこうやって居座り続けている。
「断ったところで来るんでしょ」
「あ、バレてた?」
彼女は白々しく答えた。今までの行動を見ていれば、こうなることは必然だったろう。いつか飽きていなくなるだろうし、それまで僕が耐え忍べばいいことだ。
「僕の邪魔だけはしないでくれよ」
「もちろん、約束する」
約束なんてものはどうせ破られるだろうが、言わないよりはマシだ。
そして今日からここは、僕と彼女だけの秘密の場所となった。
* * *
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