辛気くさいメリークリスマス、あるいは今、つらい人への讃歌
先斗町にお気に入りのオーガニックワインバーがある。まだ訪れたのはわずかだけれど、無事に客として認めてもらえて以来、どうにもこらえきれない辛さがあると思い出すのはその店だ。
こぢんまりとした店内でワインをいただきながら、「せや、パンこねとかな」と忙しなく働くママさんを見ていると、分かりやすい慰めがなくとも、なんとなく気持ちがほぐれてくる。こんなありがたい経験をするとき、たくさん飲んで売り上げに貢献できる体質でよかったな、などと思う。
「都会は冷たい」という人がいる。帰りに寄り道ひとつすれば「あんた昼、川におったやろ」と看破される田舎から出てきた身としては、都会ならではの無干渉を「冷たさ」と受け取る人がいることも不思議ではない。
それでも、自分が感じるのはむしろあたたかさだ。どんな失敗も、どんな孤独も、うまく探せば受け止めてくれる場所を見つけられる。お互いに探り合わず、ほんの数時間、酒とトランプだけでつながれる場所があることは、(たとえ見栄えの良くない網であっても、)自分にとって確かなセーフティネットとなっている。
ただ、そんなセーフティネットが機能しない夜もある。それが、クリスマスから年末年始にかけての季節だ。
行き場のない寂しさを街で紛らわそうにも、きらめく街には居場所が見つけられそうもない。クリスマスはまだ良いほうで、年末年始に差し掛かると、店すら営業していない。
シャッターの下りた街はしんと静まり返っていて、どこにも行くあてなどないのに、家でじっとしている気にもならない。食べたいものも欲しいものもないから、初売りの文字も目に入らない。
そんなとき、自分を救ってくれたのは仕事だった。割り込みタスクも入らない中で、年末ぎりぎりまで請求処理をしていると、自分はまだ社会に参加していて良いのだという気持ちになる。年明けは年明けで、4日ごろから通常営業ができるように諸々の土台を整えていると、誰かの助けになっているようで心が落ち着いてくる。
だから、自分は年末年始、依頼する仕事を切らさないようにしている。もちろん、年始は営業日に数えず、納期は通常よりもずっと長く設定するけれど。
言い出せないだけで、実は居場所がないんです。という人が仮にいたとして、うちの仕事が「やること」になり、年末年始の居場所になってくれたらいい。気が向いたら、その金でちょっと贅沢してほしい。
そんな気持ちで、休業期間のストック仕事をつくり出している。
会社経営も2年半となり、いろいろな場面で「今後、どういう会社にしていきたいですか?」と聞かれることも増えた。「何言ってんスか、生き残るだけで精一杯ですよ」と本気で答えているけれど、強いて言うなら、過去の自分を救ってくれる会社かもな。と最近思った。
たとえば鬱で、外に出られなくても。
昨日はダメだった、今日は働ける、明日はダメそう。みたいな不規則な健康状態でも。
自分のペースで社会に関わって、金を稼げて、気が向けばそのまま就職とかして。疲れたらハワイにでも行ってくれば?みたいな、そんな場所を作りたい。
もちろん、その過程においては、「さすがにそれはダメ」という線引きをしなければならないこともあるだろう(営利企業だからね)。でも、仕組みでどうにかなる限りは、いろいろな軋轢を飲み込むだけの胆力が今の私にはある。
そうやって環境をつくってきたら、20人を超えるフリーランスさんと仕事をするようになっていたのが2023年だった。来年はどうなるか分からないけれど、自分もまた、不完全なセーフティネットの一端を担えればそれでいいかなと思っている。
クリスマスとか年末年始が憂鬱な人へ
分かりますよ!なんか世の中みんな楽しそうで、薄暗い場所がそんなに憎いかね?ってくらい明るく照らされていて。一人になりたくてもなれなくて、いつもの道すら混んでいて、逃げるように家に帰るんだけど、別に楽しくはなくて。12月後半ってずっとそういう感じですよね。
でも別にいいと思います。年末年始とかいうけど結局平日ですし、仕事とかすればいいんじゃないですか。1月中旬になるとだんだんおさまってくるので、そのとき初めて旅行とかしたらいいんじゃないですか。飛行機とかホテルも安くなってくるんで、思い立ったその日のうちに海外旅行とかすればいいと思います。着替えとか要らないですよ。冬だし、1日や2日同じ服着たって臭くはならんでしょ。(パンツだけ洗面台で洗って、ドライヤーで乾かしちゃえば。)
なんでしょうね。多様性だ、あなたはあなた、って世の中は言ってくれるけど、悲しいことに、自分の中に染みついた規範意識だけがそうは言ってくれない。家族に帰れ、子どもを作れ、年末年始はコタツでみかん食ってテレビで漫才を見ろ。そういう叫びが内側からこみ上げてきて、涙となって流れる日もあるでしょう。そんなこと言ったって「幸せ」はスーパーで売ってないし、生い立ちは選べないし、時間は巻き戻らない。見知らぬシワを洗面台で発見して、「あー早く死にてー」とか、本気度はまちまちだけど、思ってみることもあるかもしれません。
でも、そのうえで、あえて、やっぱり、なんとか生きてみませんか。とりあえずこの1週間、いや1ヶ月、いや1年間だけでいいからなんとかやってみて、それでダメならそんとき考えてみませんか。
上でもちょっと書いたんですが、私はかつて、「もう人生おしまいや」みたいな時期がありました。
定常的な仕事ができないので、工場でチョコレート菓子を箱詰めしたり、わ◯さ生活のダイレクトメールを発送しまくったりしていました。(紫色の封筒をずっと触っていると、軍手まで紫になることをそのとき知りました。)
でも、その体験がマイナスでしかなかったかというと、そうでもないんですね。「あんときしんどかったなー」っていう挫折があるから、同じように困っている人がいたとき、解像度の高い寄り添い方ができる。「いやそれはお前が会社とかやってるからだろ」って思うかもしれないけど、たとえば声をかけるだけなら、どんな人でも0円で出来ます。いっぺん折れた人間の言葉は、必ず誰かに響くはずです。
人間って不思議なもので、声かけひとつでも「与える側」に回った瞬間、無限の力が出ることがあります。目の前の人を助けたいと思ったとき、意外なほどの善性が発揮されることがあるんです。(押し付けがましくならないようには、気を付けないといけないのですが。)
だから今年、あまり愉快でない年末年始を過ごすとしても、「ああ私は今、『愉快でない年末年始』の解像度を上げているなあ」とか思っていればいいと思います。それがいつか、未来に出会う「過去の自分」を救うことにつながるかもしれません。たかだか2週間、なんとか耐えて2024年を迎えましょう。