歩く速さ
ねえ、ちょっと待って。数歩後ろから声が聴こえて僕は振り向く。彼女は少し疲れた相を浮かべて僕の隣に落ち着く。
「歩くの、速くない?」
「ごめん。気付いたら置いてけぼりにして」
デジャブだ。僕は過去にも同じやりとりをしたんだ。立場は逆で、片思いの相手に声をかけたんだ。
※
その日はよく晴れた夏の日だった。好きな人と美術館に訪れて、ミュージアムカフェでお喋りをして、夕食をどこで食べようか迷っていた。
「うーん、どこが良いかな」
ハスキーボイスと言うべきか。クールな印象を与える声に僕は魅了されていて、有り余る欠点はどうでもいいと思わせてくれた。
「ねえ、ちょっと待って」
振り向く彼女は上瞼までかかる髪を振り払い僕をじっと見つめる。
「ごめん。私、速く歩き過ぎたかも」
「謝んなくていいよ。でも知らなかった。歩くの速い方なんだ」
「そうかも。以前、友達にも言われて」
安堵した。万が一、相手基準で僕のスピードが遅かったら、笑えないものだ。
「もう少し、ゆっくり歩くから」
「助かる」
そして僕らは歩く速さ以外の会話を始めた。
「誘いが来るとは思わなかった。私、あまり出かけない方だし。ちょびっと戸惑ったよ」
「学校だけだとさ、見える面が限られるから。知りたいと思ったんだよ。外ではどんな服を着て、どんな言葉を選んで、どんな側面があるのか」
ふうん、と呟いて僕の顔を覗き込み、前を向いて数秒後には空を眺める。なるほど足以外もよく動く方だ。僕はと言えば繰り返すが相対的に遅い方だ。
「あれ。また、私速く歩き過ぎたかも」
立ち止まり首を動かして、僕を見つめる。
「お待たせ」
僕の返事を受けてクシャッと笑う。好きな人は笑うと目がとても細くなるタイプで、その笑みも好きなところの一つだ。
「ずっとこの感じだとお互い疲れるからさ、ほら、私の手を掴みなよ」
「良いって。気を遣わせちゃう」
「そんなことないって。ほら、ワンワン」
「大丈夫だから。それに、彼氏彼女でもないのに」
目がいつもの大きさに戻る。僕は言葉のチョイスを後悔した。
「そうだよね、私たち、友達だもんね」
それから彼女が先を歩くことはなくなった。横並びでお互いに気を遣い合う必要はない。望ましい状況なのに、先ほどより口数は少ない。美味しそうなうどん屋さんに入って啜る麺の食感は心地良く、味がしなかった。
※
立ち止まった僕の元へ彼女がやってくる。
「私、遅いかな。気をつけるね」
「気にしなくて良いよ。ほら、離れないで」
差し出した手を彼女が掴み、僕らは横並びで歩く。ただ、それだけで、ほんの少し、口角がゆるむ。