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クワガタが、わたしのせいで死ぬのが怖かった

1週間ほど前に、自宅の玄関の前に大きなクワガタがポツンと一匹現れた。

わたしは家のドアを開け、今年一番大きな声で「クワガタがいる!!」と叫んだ。小学校1年生になる次男が昆虫好きだということもあったが「こんなところになぜクワガタがいるのだ!?」という不思議な気持ちに歓喜していたように思う。

そのクワガタは虫かごに入れた。昆虫マットと登り木、餌用のゼリーなどを購入し、しばらく飼うことにした。

でも、わたしはその日以来「このクワガタはいつ死ぬのか」を考えるようになった。

わたしは毎日、クワガタが死んでいるのではないかと怖くなった。基本的にクワガタは夜行性なので日中は大人しく土に潜って動かない。それを知ってはいるものの、わたしは「死んでしまうのではないか」「すでに死んでいるのでは」という不安に駆られていた。

「しばらく観察したら、放してあげよう」

「逃がしてあげたほうが自由になれる」

そんなことを少しだけ息子にも言った。

小学6年生の長男が幼かった頃も同じだった。幼稚園でカブトムシの幼虫をもらってくれと頼まれて、無事に幼虫から成虫へと孵化させた後に、近隣の雑木林に逃がしたこともあった。

でも、わたしは今日ふと思ったのだ。

「わたしはたぶん、自分が殺したと思いたくないだけなんだ」と。

昆虫の生態についてそこまで詳しいわけではないが、カブトムシやクワガタは基本的にメスや餌となる木の樹液を取り合うときに、ほかの昆虫と喧嘩をするものである。野生の虫として生きていたら、雨風に耐えたり周りの虫との格闘をしたりしながら、自分の生命を維持すべく生きるだろう。

でも、今こうして飼育ケースの中で毎日新しい昆虫ゼリーを与えられ、適切な湿度を保たれ、雨や風に打たれることもなく平穏に過ごしているクワガタがいきなり野に放たれたところで、自然界に適応できず死んでしまう可能性だって大いにあるだろう。実際はわからないけれど、人間に置き換えた場合かなり難しいと思う。

わたしが「逃がしてやりたい」と思ったのは、このクワガタが死んでしまうのがつらいのではなくて、自分たちのせいで死なせたことにしたくないだけではないかと思ったのだ。

思えばわたしは、生き物が死ぬということに一見敏感なようで、どこかその「生と死」のつながりが自分の中でうまくいっていないところがあった。

たとえば、子どもの頃に飼っていた金魚が死んだときのこと。

縁日か何かで手に入れた金魚が死んでしまった。名前を付けて金魚の絵を描いたりもしていた。

その金魚の死骸を、父親が「土に埋める前に腐ってしまうといけないから」とラップにくるんで冷凍庫に入れていた。わたしはそれに強い嫌悪感を抱いた。

自分が飼育していた生き物が死ぬ、生き物が死ぬと腐る、だから冷凍庫に入れておき、明日になったら土に埋めに行く……という一連の流れがうまく頭の中でつながらず、昨日まで生きていた金魚が冷凍庫に入って凍っているという風にしか考えられなかった。さらにわたしは、それを見て気持ち悪いと感じた。そんな自分自身への嫌悪感がものすごく強かった。

そのせいか、わたしは死んだ魚のとても不快な夢を見るようになり、それは大人になるまでずっと続いた。

金魚が死んでしまった悲しみではなくて「愛着のあった金魚が凍っていた事実」しか残らなかったのかもしれない。

あるときは、母親が道端で惹かれた猫を土に埋めていた。わたしは猫の死体を見ても「かわいそう」「痛かったろうに」などという感情がもてず「こわい」「気持ち悪い」という感覚しか湧かなかった。嫌なことをしたという、後ろめたさすら感じた。

しかし母は、涙を流して猫をどうにかしようとしていた。わたしは母と同じように「かわいそうだ」と感じているふりをして、母と一緒に猫を川の土手に埋めた。

わたしの中に残っているのは、猫が死んでしまった悲しみではなくて「母と同じ思いを抱いている」ふりをした、罪悪感だけだった。

飼っている金魚が死んだときも、轢かれた猫を土に埋めるときも、同じ感覚だったと思う。生きていたものが何かの事情によって死んでしまった、という一連の流れをつなげて情緒的に考え、そこに感情を添えることがどうもできなかった。

今、わたしの家の中で飼育しているクワガタも、きっとわたしにとって同じなのではないだろうかと思う。

クワガタが死ぬのが怖いと感じているのは、一つの命が死んでしまうということそのものに感情を寄せているわけではない。

「わたしがクワガタを殺した」「自分が死なせた」という事実から免れたいだけである。だってあの日、わたしがクワガタを見つけなかったとしても、次男が喜ぶだろうと捕まえなかったとしても、車通りの多いこの家の周辺では死んでしまった可能性は十分あるのだ。

生き物は、虫だろうが動物だろうが人間だろうが、いつどこで、どんな死に方をするかなんてわからない。でも「飼育する」以上はその責任を人間が負うことになる。

その責任から逃れたいがためにわたしは「クワガタを逃がしたい」と思っているだけなんだろうと思う。

森の中では、1日何匹の虫が死んでいるというのだろうか。虫1匹死んだって、わたしたちの日常生活には何の支障もない。生き物が死んだことに悲しみを感じなくても、誰も何も責めないし、責任など問われない。たかが虫1匹が死ぬことくらい、どうってことはない。

でも「自分が殺した」という罪悪感はいつまでも残る。わたしの中だけで。

それは、飼っていた金魚が凍っているのを見て嫌悪した気持ち、母と同じ気持ちのふりをした罪悪感と同じだ。

そんな罪悪感や自分自身への嫌悪感に対して「クワガタを自由にしてあげたい」とか「放してあげた方がこの虫にとって最善」なんて思っているのだ。

なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。蚊はスプレーの一撃で平気で殺すくせに。毎日死んだ動物の肉を食べているくせに。何を言っているんだろうと思った。

でも、たった1匹のクワガタに対して「自分が死なせたことにしたくない」というのは確実にある気持ちだった。それがいいとか悪いとかの話ではないのだが、自分の責任を「この虫は、自由に野に放たれることを望んでいるだろう」という理屈で正当化していたことにハッと気づいた。

今回は虫が相手の話だけれど、これは対人でもやってしまうことなのだろうと思うから、しっかり刻んでおきたいと思った次第である。

では、生き物を飼うことや昆虫採集、生き物を食べるなどの行為をどう捉えたらよいのか。

それは「自分たちは生き物を死なせて生きている」ということをただ認めるだけでよいと、今は思っている。

現にわたしは牛や豚、鳥、魚を食べる。その生き物を食べるときにいちいち罪悪感など抱かない。とてつもなく美味しそうに食べるだろう。

でも、ときどき生き物を食べて生きていることについて考えることはある。しかしそれに関しては「今日も、生き物の命を美味しく食べて生きている!」と思うことしかできない、という結論に至った。

美味しく食べてあげるのがこの動物のためとか、残さず食べるのが動物への感謝とか、そういうのはどうでもいい。どうでもいいというのは「個人の自由」という意味で、決まりはないということだ。

しかし、わたしにとっては「自分は動物の命を食らって生きている」ただそれだけだ。ライオンがシマウマを食べて生きているのが自然界では当たり前なのと同じこと。そこに「シマウマのため」とか「草食動物に感謝」「美味しく食べれば命も喜ぶ」とかそういう余計な美談的エゴを加えないということだ。

この問題は「クワガタががたまたま家の前に現れ、それを捕獲して飼育し、毎日観察して息子と盛り上がって、わたしは楽しい時間を生きた。知識と体験を得た」

ただそれだけでいいのだ、というところに着地した。「自分が無力であると知る」ということではないだろうか。

こんなにシンプルなことに行きつくまでに、なぜこれほど遠回りな思考や感情を経由しなければいけないのだろうか……と思うのだけれど、それもまた仕方がないことである。

めんどくさいにもほどがあるけれど、しっかり考えておいてよかったかなと思う。







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